(題)寺田寅彦、存在の読み替えについて
*寺田寅彦、存在の読み替えについて第13回 以上、例をあげながら、存在が、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるものであることをまず確認し、そのあと、科学が存在をただ無応答で在るだけのものにすり替えているのを確かめ…
*寺田寅彦、存在の読み替えについて第12回 では、科学によって存在からとり除かれた、私が現に目の当たりにしている、川の流れる姿、舞台中央のソリストの姿、レモンの黄色、現に聞いているトランペットの音、現に嗅いでいる花の香り、現に味わっているレモ…
*寺田寅彦、存在の読み替えについて第11回 存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるものから、ただ無応答で在るだけのものへすり替えることで、向日葵も、机の一辺も、その表面も、蜜蝋も、位置を占めているという性質…
*寺田寅彦、存在の読み替えについて第10回 デカルトはこの「客観化」作業を使って、一個の蜜蝋を、ただ無応答で在るだけのものであるところの「客観存在」へと読み替えてみせる。 それはたったいま、蜜蜂の巣から取りだされたばかりである。それ自身の蜜の…
*寺田寅彦、存在の読み替えについて第9回 科学にとっての存在には外見も認められず、また色も、私たちが普段、目の当たりにする色としては認められなくなる。同様に、堅さも堅さとしては認められないことになる。 目をつむりながら、机の上にあるペンを上…
*寺田寅彦、存在の読み替えについて第8回 実際に、「客観存在」を作りだすこうした「客観化」という操作を簡単な例でいくつかやってみよう。 部屋のなかにある一つの机を考えてみる。 この机の表面には四辺ある。この机に着けば、手前にくる一辺を例にあげ…
*寺田寅彦、存在の読み替えについて第7回 科学が存在を、ただ無応答で在るだけのもの(客観存在)へすり替えることについて、長くなったが、ここまで確認してきた。寺田は随筆「物理学と感覚」で、自分はマッハのように、感覚こそ実在であると考えると書い…
*寺田寅彦、存在の読み替えについて第6回 向日葵にしろ、人の顔にしろ、舞台上の演奏者の身体にしろ、音にしろ、それぞれは、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」を終始問われるものである。比喩的な言い方をすれば、それらはそれぞれ、「他…
*寺田寅彦、存在の読み替えについて第5回 誰でもが日々体験していてよく熟知している単純なこと、すなわち、歩み寄れば向日葵の姿は大きくなっていき、遠ざかれば逆にその姿は小さくなっていくという、ごくごく簡単なことを、今わざわざ形式ばった言い方で…
*寺田寅彦、存在の読み替えについて第4回 黄色い向日葵が地面に一本だけぽつんと植わっている。今この向日葵に遠くからゆっくり近づいていくと、その姿は一瞬ごとに少しずつ大きくなっていく(大きくなるのは向日葵の実寸ではなく、あくまでその姿である)…
*寺田寅彦、存在の読み替えについて第3回 自分の目の前にこちらを向いた人がいるとする。私はその人の顔を見ている。しかしこの人の顔で私に見えているのは、こちらに正対した面の、その上っ面だけである。顔の側面も背面も見えてはいない。当然頭の中身も…
*寺田寅彦、存在の読み替えについて第2回 高知新聞の記事に出てくる随筆「物理学と感覚」(大正6年11月)を読んでみる。この随筆は科学の基本姿勢を的確につかんでいて、物理学にたいする寺田の異議申し立てについてもわかり易く説明している。この随筆の…
*寺田寅彦、存在の読み替えについて第1回 科学というと、事実を事実に忠実に把握する学と思われがちであるが、それはむしろひとつの思想である。ひとつの独特な世界観を作りあげる営みである。物理学者の寺田寅彦(1878年-1935年)は生前、科学が作りあげ…