(新)Nothing happens to me.

科学はボタンをかけ違えたまま来たのではないでしょうか。

私の内部と外部

寺田寅彦、存在の読み替えについて第12回

 では、科学によって存在からとり除かれた、私が現に目の当たりにしている、川の流れる姿、舞台中央のソリストの姿、レモンの黄色、現に聞いているトランペットの音、現に嗅いでいる花の香り、現に味わっているレモンの味、身に感じている熱さ、手にもった荷物の重みは何だということになるのか。


 いっぽんだけ地面に植わっている向日葵に近づいていき、そのあとこの周囲をまわって観賞してみるということを例としてやった。その例ではこの向日葵の姿を複数、私は目の当たりにすることになった。しかし、たがいに異なっているそれら複数の姿はどれもがこの向日葵の姿だった。どれかが偽物でどれかのみが本物ということはなかった。更にこの向日葵には、そういった巨視的な姿のほかに、電子顕微鏡ではじめて目の当たりにできる微視的な姿というのもある。元素の組み合わさったものとして姿がそれである。で、巨視的な姿がどれも向日葵の姿であったように、この微視的な姿もまたこの向日葵の姿である。この向日葵が「どのように在るか」を捉えるとは、この向日葵が私の身体などといった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにどう答えるかを捉えることだったが、向日葵に近づいて行き、そのあとその周囲をまわっている間、この向日葵は巨視的な姿を複数見せ、電子顕微鏡で見てみれば、元素の組み合わさった微視的な姿を見せるということである。


 ところが科学にとっての存在には、巨視的な姿は属さない。科学にとっての存在に認められるのは、電子顕微鏡で見える微視的な姿だけである。川の流れる姿、舞台中央のソリストの姿、レモンの黄色、トランペットの音、花の香り、レモンの味、身に感じている熱さ、手にもった荷物の重みといった巨視的な姿(音や匂いなどを巨視的というのはおかしいかもしれないが)は主観的要素(ジョン・ロックの言葉で言えば二次性質)にすぎないことになる。脳科学はこの巨視的な姿を、脳によって私の内部に作り出されたものとする。私の外部にあるのは元素または元素の組み合わさった「客観存在」であって、それは電子顕微鏡でのみ見える微視的な姿をしている。外界にある、こうした「客観存在」の姿を、脳は、私の内部に、巨視的な姿へと翻訳しているのだと考えるわけである。外界に、元素または元素の組み合わさったもの(客観存在)がどのようにあるのか、そういったことについての情報(これを元素情報と呼ぶことにする)を、光、空気や液体の振動、匂い分子、味物質が私の身体の感覚器官(目、耳、鼻、口)に伝える。するとそこで元素情報は電気信号に変換され、神経を伝って脳にいたることになる。そしてその脳でこの元素情報が解析された結果、私の内部に、外界にある元素または元素の組み合わさったものの翻訳像として、巨視的な姿ができあがるとするのである。


 こうして、脳によって私の内部に作り出される巨視的な姿から、ふだん私は、私の外部にある元素または元素の組み合わさったものの存在を推測していることになる。したがって、ここでごくごく根本的なことが問題になってくる。確かに私は私の内部にある、巨視的な姿を認めることはできる。しかし本当に外界にはそれらの姿に対応する、元素または元素の組み合わさったものがあるのか。つまり、外界からやってくる元素情報を解析する脳のその解析作業は正しいのかと疑われることになるわけである。錯覚という体験がある。その体験では実は存在していないものが見え、存在していない音が聞こえているではないか。夢はどうか。夢で見たり聞いたりした向日葵や音楽は私の外部には実際には存在していないではないか、と。


 少し考えてみると、私の外部に、元素または元素の組み合わさったもの(客観存在)は本当に存在しているのか、確認がもてなくなってくるということになる。が、確認をとろうにも、私が関われるのは、私の内部に脳が作りだしてくれる巨視的な姿だけということになる。もし外界から脳にまでやってくる元素情報が間違っていたり、脳の情報解析作業が正しく行なわれていなかったりすれば、私は外界に対応するものなどもってはいない巨視的な姿を私の内部に見、聞き、匂い、味わい、触れているだけということになる。しかしそういった元素情報の伝達や解析は私の知らないところで脳によってなされているにすぎない。


 こうして、寺田が随筆「物理学と感覚」の冒頭で触れていたように、外界に本当に事物は存在するのかという根本的な疑惑がつねに「客観化」にはつきまとうことになる。この疑惑について寺田は、「哲学者の中にはわれわれが普通外界の事物と称するものの客観的の実在を疑う者が多数あるようであるが、われわれ科学者としてはそこまでは疑わない事にする。(略)これがすべての物理的科学の基礎となる第一の出発点であるからである。(略)科学者はなんらの弁証もなしに吾人と独立な外界の存在を仮定してしまう」と断っていた。存在を、ただ無応答で在るだけのものにすり替えるために、存在の巨視的な姿(目の当たりにしている向日葵の姿など)を、私の内部におしこめることになって、私は私の外部を直接知ることはできないということになる。で、果して外界に本当に事物は存在するのかといった疑問から逃れられなくなるわけなのである*1

つづく


今回はこのシリーズの第12回目でした。

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*1:2018年9月14日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。