(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

デカルトと科学は「絵の存在否定」から誕生した

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第6回


 私がいま空の姿を目の当たりにしているとすると、その姿と、いまこの一瞬の私の「身体の感覚部分」とは、「ひとつの世界絵に共に参加している」と言える。が、それらふたつを、それぞれが現に在る場所に在るのは認めるものの、「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士とは認めず、一転、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士とすると(この操作を「絵の存在否定」と名づけた)、どうなるか。「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士である、空と、私の「身体の感覚部分」とが現に在る場所にただばらばらにあるだけということになる。私にはその瞬間空は見えていないしそもそも見るのは不可能ということになる。


 ところが、現にその瞬間、空の姿が見えていることもまた厳とした事実である。


 そこで科学は、現にその瞬間、私が目の当たりにしている空の姿を、私の意識内にある映像であることにし、その像を、私の脳が作った、意識外部(外界にある空のコピーであることにする。


 しかし、意識外部(外界)に実在する存在のコピー像を意識内に脳が作りあげることと知覚体験をこのように解すれば、脳が意識内に作りだすそうした像に対応する存在がほんとうに外界に実在するのかといった疑問を抱くことになる。いま空の姿を現に目の当たりにしていても、外界には空など実在していないにもかかわらず脳が勝手に空の映像を意識内に作りだしているだけかもしれないと疑わしくなってくる。実は外界には太陽も月も身体(ただし「身体の物的部分」のことである)も実在せず、それどころか外界自体、実在しないかもしれないと、とことん怪しまれてくる。絶対確実なのは、意識(私内部)が存在することと、意識内(私内部)の像(映像、音、匂い、味など)が存在することだけだとしか考えられなくなる。


 が、いまも書いたとおり、このようにしか考えられなくなる事の発端は、「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士を、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士へと読み替える「絵の存在否定」にある。


 実際のところ、私がいま目の当たりにしている空の姿は、いまこの一瞬の私の「身体の感覚部分」と、「ひとつの世界絵に共に参加している」。いまこの一瞬の私の「身体の感覚部分」を存在しているものと認めるなら、いまこの一瞬の私の「身体の感覚部分」と「ひとつの世界絵に共に参加している」空の姿のほうもまた、いまこの瞬間、存在していると認めるのが筋である (いまこの一瞬の私の「身体の感覚部分」を存在しているものと認めると、それを一部分とする、いまこの瞬間の世界絵を存在しているものと認めることになり、その世界絵のうちの、私の「身体の感覚部分」以外も存在していることになるという次第である)。前のほうで例に出した三色の絵を思い出していただきたい。青空の下に黄金色の稲穂の波が広がり、さらにはその下に焦げ茶色の地面が広がっているその絵で言えば、青空を存在しているものと認めると、その青空と「ひとつの絵に共に参加している」もの同士であるところの、黄金色の稲穂や焦げ茶色の地面をも存在しているものと当然、認めることになるというのと事情はまったく同じである。


 たしかにいま私は錯覚しているかもしれない。目の当たりにしているのは青い壁紙であって、空ではないかもしれない。一瞬後には自分が見間違いをしていたと気づき、それと同時に目の前からは空が消え、代わりに青い壁の姿を目の当たりにすることになるかもれしない。あるいはいま夢を見ていて、実際に私の目の前にあるのは空ではなく、天井であるかもしれない。一瞬後には夢から覚め、目の前から空が消えて無くなるかもしれない。が、そのように一瞬後に仮に消え去るのだとしても、いまこの一瞬に目の当たりにしている空の姿が、いまこの一瞬、私の前方にあるのは絶対確実な事実であって、疑えない。一瞬後に目の前がどうなるかということは未来予想の話であり、かたや私がいま目の当たりにしている空の姿がいまこの一瞬、現に前方にあることは現在の話であって、別のふたつの事柄である。


 先に申し上げたことをくり返す。


 いま私が目の当たりにしている空の姿と、いまこの一瞬の私の「身体の感覚部分」とは、「ひとつの世界絵に共に参加している」。いまこの一瞬の私の「身体の感覚部分」を、いま存在していると認めるなら、この私の「身体の感覚部分」と「ひとつの世界絵に共に参加している」空の姿のほうも、いま存在していると認めるのが筋である。私の「身体の感覚部分」だけではなく、いまこの一瞬に目の当たりにしている前方の光景も、現にこの瞬間に聞いている歓声(音)も、現にいま嗅いでいるレモンの匂いも、現にいまこのときに味わっているコーヒーの味も、いまこの一瞬に存在すると絶対確実に請け合える。私を含んで世界は確かに存在する(私の身体は世界絵の一部分である)。デカルトや科学が示唆する、私(この場合は意識のこと)しか存在しない可能性など、まったくのゼロであると断言できる*1

つづく


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第3回


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*1:2017年5月27日に表現を一部修正しました。