(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

まとめ

寺田寅彦、存在の読み替えについて第13回


 以上、例をあげながら、存在が、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるものであることをまず確認し、そのあと、科学が存在をただ無応答で在るだけのものにすり替えているのを確かめた。このようにすり替えられてできるのは、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何かだった。今現在、科学はこの「客観存在」を、元素または元素が組み合わさったもののこととしているということだった。寺田は随筆「物理学と感覚」で、感覚こそが実在であると主張していたけれども、それは存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるものと認めることである。30センチの同じ棒でも、20メートル先に見るか、2メートル先に見るかでその姿は異なると彼は指摘していた。茶碗もふせて置いてあるのと、あおむけて置いてあるのとでは姿がまったく違うし、同じ山でも4キロ先に見るのと、足下に見るのとでは姿は異なると言っていた。いっぽう、科学は存在を五感から離れたものとして規定すると寺田は書いていたが、その五感から離れたものとは、ただ無応答で在るだけのもの(客観存在)のことである。つまり、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何かのことである。けれども寺田は、このように存在を読み替えることに一定の理解を示してもいた。それはどういうことか。存在を、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何か(客観存在)として考えるというのは、扱う問題を存在の位置取りに限定するということである(今は力という性質についての考察は省いている)。そのように、とり扱うのを位置取りの問題に限定するかぎりでは、五感から離れたものを想定するやり方は有効であるということなのである。


 ただし存在を「客観存在」にすり替えるのはあくまでひとつの方便であって、存在の、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えている姿からこの「客観存在」が作りだされていることを忘れてはならないと寺田は釘をさしていた。真の存在は「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるもの、すなわち寺田の言う感覚である。それを忘れると、世界の意味はまったく変わってくる。寺田のように、感覚を大切にする多くのひとたちにはついていけない世界観を学の名のもと、科学は強要することになってしまう。それに科学はこの本当の存在から、これからもそのつど知を汲み出していかなければならないのである。冒頭で高知新聞の記事から引用した文章にはこうあった。


「当時の物理学が、人間の五感から離れて〈感覚を無視〉している傾向にあることを〔引用者注:寺田は〕指摘。能力の限界近くまで研究が進んでいると学者が錯覚し、〈穴さへ繕へば最早それで凡(すべ)てが終る様な楽観的の気分〉でいるとの思い上がりに警鐘を鳴らす」*1

(了)


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*1:2018年9月14日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。