科学は存在を読み替えます。ですが、調べてみますと、それは科学に限ったことではないようです。哲学者デカルトははやくも著書でそうした存在の読み替えをものの見事にやってみせています。科学はこうした読み替え作業を受け継いだものと言うべきかもしれません*1。
けれどもまた、誰ひとりこうした読み替えをそれと自覚してやっていたのではなかったとも言えると思います。今現在も同様です。
とはいえ、寺田寅彦が随筆「物理学と感覚」で、「物理学の説く世界は人間不在である」と指摘したのより少しまえから、ヨーロッパでも、存在の読み替えが一部のひとたちの間で自覚され始めました。たとえば、現象学の提唱者フッサールが声をあげています。
哲学や科学がこういうものだと説明してみせる存在を、日々私たちが触れている存在の姿にいったん基づけなおしてみようと彼は繰り返し提案しました。
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つまりこういうことです。寺田寅彦の随筆「物理学と感覚」を手引きにしながら、このブログでしばらくの間、存在の読み替えについて確認してきました。科学は存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか*2」という問いに終始答えるものから、ただ無応答に在るだけのもの*3へと読み替えるというわけでした。この読み替えは、私たちが日常に触れている存在の姿から、私たちが現に目の当たりにしている外見(姿)や、現に聞いている音、現に嗅いでいる匂い、現に味わっている味、現に触れている触覚像などをとり除くことでした。そうしてとり除いていきますと、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもの*4とでも言うしかない何かが、あとに残ることになります。科学は、あとに残ったこのものをこそ存在であると考えるということでした。この存在は古くは延長(extensio)とか一次性質と呼ばれ、今現在では、元素(原子のこと)または元素が組み合わさったもののことと考えられていますが、これを私は僭越ながら、客観存在と呼び、こうした存在の読み替えを客観化*5と名づけて考察しました。
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科学が説くこの客観存在が、私たちが普段、触れている存在の姿(「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるもの)から、どのように考え出されたのかを明らかにすること、これをフッサールは現象学的還元と呼び、実際にやってみようとしたということなのです。フッサール自身はこの現象学的還元をやりとげてはいないことになるのでしょうけれども。
またフッサールの弟子だったと言われるハイデガーも存在の読み替えについて考察しています。彼は著書『存在と時間』で、存在を、客観存在として説明するのではなく、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものとして明らかにしようとしました。
物については、「他のもの(特に私の身体)と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるもの、つまり彼の言葉でいう道具として彼は記述しました。
また私については、眼前の向日葵や日の光といった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるもの、つまり世界内存在として解き明かそうとしたのです。
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