*科学するほど人間理解から遠ざかる第19回
以上、物を見るということについて確認しなおす、いわゆる〈出発点〉で、西洋学問が「絵の存在否定」という不適切な操作をどのようになすか、例をもちいて見てきました。
結果、こういうことにするとのことでした。
- Ⅰ.俺が現に目の当たりにしている物の姿(もちいた例では、大木の姿)を、俺の心のなかにある映像であることにする。
- Ⅱ.その代わりに、俺の前方にある物を、ただ無応答で在るだけの、見えることのないものであることにする。
西洋学問ではこの要領で、俺が現に聞いているスタジアムの歓声(音)も、俺が現に嗅いでいるコーヒーの匂いも、俺が現に味わっているチョコレートの味も、何もかも、俺が体験しているものはみな、俺の心のなかにある像にすぎないということにします。物も、音も、匂いも、味も、存在するものはすべて、ただただ無応答に在るだけで、見ることも触れることも聞くことも嗅ぐことも味わうこともできない、ということにします。
先に、快さ苦しさが何であるかを俺が理解するに至った道筋をみなさんと一緒にたどっているさい*1、いわゆる〈第2地点〉で、存在同士が、応答し合いながら共に在ることを確認しましたけれども、「絵の存在否定」という不適切な操作をなす西洋学問のもとでは、いま確認しましたように、存在同士は一転、お互いに無応答であることにされます*2。
西洋学問ではいわゆる〈第2地点〉を通過できないことがいま、確認されました。
これでは、〈第3地点〉以後には進めず、快さ苦しさが何であるかを理解する〈第5地点〉にはたどり着けないと言うべきではないでしょうか。
西洋学問ではこれまで、快さ苦しさが何であるかは理解されてきませんでした。これからも理解されることはないものと思われます。
後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。
- 変更前:07:00
- 変更後:07:10
ひとつまえの記事(②)はこちら。
今回の最初の記事(①)はこちら。
前回(第18回)の記事はこちら。
このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。
*1:その道筋は箇条書きで書けばこういったものになるとのことでした。
出発点.物を見るとはどういうことか確認しなおす。
第2地点.存在同士が、応答し合いながら共に在ることを確認する。
第3地点.存在同士が、応答し合いながら共に在るというのは、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるということであると確認する(問いの読み替え1)。
第4地点.さらにそれが、「今どうしようとするか」という問いに俺が身をもって答えることであるのを確認する(問いの読み替え2)。
第5地点.「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」のを快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」のを苦しさを感じていると言うのだと理解する。
*2:存在をこうした別ものにすり替える作業を、「存在の客観化」と俺はよんでいます。近代哲学の祖で、科学が歩みゆく道を切り開き、整備したデカルトが、この「存在の客観化」を著書でくわしく披瀝しています。
ちなみに、その模様については以下のシリーズで書きました。