(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

科学にはなぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか、遠い目をしてふり返る〈2/5〉

科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第2回

1/5からのつづき

 さあ、いま、身体とは何か確認しましたよ。もう一度言いますよ。みなさんにとって身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚」と「身体の物」とを合わせたもののことなんだ、って。


 けど、西洋学問では身体をこんなふうに解することはありません、ね? 身体を機械と見なしますよ、ね? 身体がそんなふうに機械と見なされるに至る経緯をいまから追っていきますね


 西洋学問では事のはじめに、ふたつの不適切な操作を立てつづけに為します。そのふたつの操作を俺は「絵の存在否定」、「存在の客観化」とそれぞれよんでいますが、そのふたつを為すのが、身体を機械と見るに至る発端だと言えるんじゃないですかね?


(参考1:絵の存在否定)


(参考2:存在の客観化)


 その発端から身体が機械と見なされるに至る経緯は簡単に言いますと以下のとおりです


 俺の目のまえに、花瓶に入った、一輪の真っ赤なバラの花があると仮定してみてくださいよ。俺が目の当たりにしているその一輪のバラの姿は俺の前方数十センチメートルのところにあります。でも、西洋学問では事のはじめに、さっき俺が「絵の存在否定」、「存在の客観化」とそれぞれよぶんだって言った、不適切な操作ふたつを立てつづけに為します。で、ややこしいことは抜きにして、結論だけをさらっと言いますと、俺が現に目の当たりにしているその一輪のバラの姿を、俺の眼前数十センチメートルのところにあるものではないことにし、俺の心のなかにある映像であることにします。そして、俺の眼前数十センチメートルのその場所に実在しているのは、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素なるものが、集まったにすぎないものであることにし、それこそが「ほんとうのバラ」であるということにします。


.俺が現に目の当たりにしている一輪のバラの姿を、俺の眼前数十センチメートルのところにあるものではなく、俺の心のなかにある映像であることにする。

.俺の眼前数十センチメートルのその場所に実在しているのは、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素なるものが、集まったにすぎないものであることにし、それこそが、「ほんとうのバラ」であるということにする。


 西洋学問では、その「ほんとうのバラ」から、「そのほんとうのバラの様子を知らせる情報」が、光にのって俺の眼球までやってきて電気信号にかたちを変えたあと、神経をつたって脳に行き、そこで映像に様式を変換されて、最後、俺の心のなかに認められるということにします。で、最後、心のなかに認められたその映像こそ、俺が現に目の当たりにしているバラの姿であるということにします。


.俺が現に目の当たりにしているバラの姿を、俺の心のなかにある、「ほんとうのバラ(心の外に実在)の様子を知らせる情報」であることにする。


後日、配信時刻を変更しました。

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今回は記事を(1/5)、(2/5)、(3/5)、(4/5)、(5/5)の5つに分けて配信しています。

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