(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学にはなぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか、遠い目をしてふり返る〈4/5〉

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第2回


 西洋学問では、身体についてもこれとまったくおなじように解します。


 左手を例にまず見てみます、ね?


 みなさんにさっき、自分の左手を眼前にかかげてもらったじゃないですか? あ、しまった、下げてくださいって言うの忘れてた……しびれてます? ああ、申し訳ないです……でも心苦しいですけど、もうしばらく、そのままで……


 身体っていうのは、おなじ場所を占めている「身体の感覚」と「身体の物」とを合わせたもののことであるって、さっき確認したじゃないですか。なら、みなさんの左手も、おなじ場所を占めている「左手の感覚」と「左手の物」とを合わせたもののことであると言えますよね?


 いま、みなさんが目の当たりにしているみなさんの「左手の物」の姿は、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあります、ね?


 みなさんの「左手の感覚」もそこに、おなじく場所を占めてます、ね? 


 眼前数十センチメートルのその場所をおなじく占めているそれら「左手の物」と「左手の感覚」とをひとつに合わせて、みなさん、左手って言いますよ、ね?


「左手の感覚」は左手のうちに含まれます、よね?


 ここで、ついさっき確認したことを思い出してみてくださいよ。事のはじめに「絵の存在否定」、「存在の客観化」というふたつの不適切な操作を立てつづけに為す西洋学問の手にかかると、みなさんが体験しているもの一切はみなさんの心のなかにある像にすぎないことになる(先のⅠ)ってことだったじゃないですか。で、この世に実在しているのは見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素なるものだけということになる(先のⅡ)んだ、って。


 西洋学問では、いまみなさんが現に目の当たりにしているみなさんの「左手の物」の姿と、現にそれとおんなじ場所を占めているみなさんの「左手の感覚」とを共に、みなさんの心のなかにある像であることにします(先のⅠに相当)。で、この世に実在しているのは元素なるものだけであるとする考え(先のⅡ)にもとづいて、みなさんの眼前数十センチメートルの場所に実在している左手は、元素の集合体にすぎないということにします。


 そうして左手から「左手の感覚」を除外します。


 このように元素のあつまりにすぎないものと解された左手を以後、左手機械とよぶことにしますね?

  • (i)みなさんが現に目の当たりにしている「左手の物」の姿と、現に感じている「左手の感覚」とを共に、みなさんの心のなかにある像であることにする。
  • (ii)みなさんの眼前数十センチメートルのその場所に実在している左手は、元素の集まりにすぎないということにする(左手を左手機械ということにする)。


 西洋学問では、みなさんの眼前数十センチメートルの場所に実在しているその「左手機械」から、「当の左手機械の様子を知らせる情報」が、光にのってみなさんの眼球にやって来て、電気信号にかたちを変えたあと、神経を伝って脳まで行き、そこで映像に様式を変換されて、心のなかに認められるということにします。そうして最後、心のなかに認められた映像こそ、みなさんが現に目の当たりにしている「左手の物」の姿であるということにします。


 また、「左手機械各所の様子を知らせる情報」が、「左手機械」各所から、電気信号のかたちで発したあと、神経を伝って脳に行き、そこで感覚に様式を変換されて、心のなかに認められるという経路も想定し、最後そうして心のなかに認められた感覚こそ、みなさんが現に感じている「左手の感覚」であるということにします。

  • (iii)左手の感覚心のなかにある、「左手機械の様子を知らせる情報であることにする


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