*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.52
◆左手を例に考察する
先ほど身体全体について言ったことが、俺の左手にも当てはまります。左手とは、ほぼおなじ場所を占めている、「左手の物」と「左手の感覚」とを合わせたもののことですね。
さて、俺はいま、みなさんの想像では、俺の「左手の物」の姿を目の当たりにしています。その「左手の物」の姿は、俺の眼前数十センチメートルのところにありますね。いっぽう俺(が現に感じている)の「左手の感覚」も、そのおなじ場所を占めていますよね。
ところが事のはじめに「絵の存在否定」を為す科学の手にかかると、俺が現に目の当たりにしているこの「左手の物」の姿と、俺が現に感じている「左手の感覚」とは共に、俺の眼前数十センチメートルのところにあるものではなくなります。一転、俺の心のなかにある映像と(感覚)像にすぎないことになります(先の①を参照ください)。
そして、科学はさらに「存在の客観化」を為すことによって、俺の眼前数十センチメートルのその場所に実在しているほんとうの左手は、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小の何か(元素)の寄せ集めにすぎないということにします(先の②を参照ください)。
こうして科学にとって左手は、単なる「元素」の寄せ集めにすぎないものであることになります。そこに「左手の感覚」は含まれないことになります。
つまり、機械であることになるわけです。
*今回の最初の記事(1/6)はこちら。
*前回の短編(短編NO.51)はこちら。
*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。