*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.48
◆左手を例に
さらにしつこく確認しますよ。
左手に話をしぼって、このことを検証してみます。
俺がいま自分の目のまえに、自分の左手を掲げているとひとつ想像してみてくれますか? その左手は、俺の眼前数十センチメートルのところに位置しています。
では、考えます。俺の眼前数十センチメートルのその場所にあるのは何か。
爪、毛、皮膚、脂肪、骨、靱帯、血管、血液、神経などの「物」がそこにありますね。
でも、そこにあるのはそうした「物」だけですか? ちがいますね? それら「物」が占めているのとほぼおなじ場所を、「感覚」もまた占めていますよね?
まさに左手というのは、ほぼおなじ場所を占めている、それら「物」と「感覚」とを合わせたもののことですね?
いま挙げた「感覚」のほうは、ふだんみなさんに、左手の感覚(ヒダリテ・ノ・カンカク)と呼ばれます。いっぽう「物」のほうは、俺が先に提案した「身体の物」という言い方に倣えば、変に聞こえるかもしれませんけど、左手の物(ヒダリテ・ノ・ブツ)と呼べますね。
左手とは、ほぼおなじ場所を占めている「左手の感覚」と「左手の物」とを合わせたもののことではありませんか。
左手は機械ではないと、みなさん、思いません?
だって、機械にはない「感覚」というものがその場所に含まれているではありませんか。
身体とは、ほぼおなじ場所を占めている「身体の物」と「身体の感覚」とを合わせたもののことである。身体には、機械にはない「感覚」が含まれる。したがって、身体は機械ではない。いまや一点の曇りもなく明確に、身体が機械なんかでは決していないことが示せましたね。
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しかし生物学史には、身体をこのように当たり前に見る向きは登場しないわけです。
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*今回の最初の記事(1/5)はこちら。
*前回の短編(短編NO.47)はこちら。
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