(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学は身体を機械と見なすが、身体が機械であったことは嘗てただの一瞬もないこと(3/5)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.2】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.48


◆左手を例に

 さらにしつこく確認しますよ。


 左手に話をしぼって、このことを検証してみます。


 俺がいま自分の目のまえに、自分の左手を掲げているとひとつ想像してみてくれますか? その左手は、俺の眼前数十センチメートルのところに位置しています。


 では、考えます。俺の眼前数十センチメートルのその場所にあるのは何か。


 爪、毛、皮膚、脂肪、骨、靱帯、血管、血液、神経などの「」がそこにありますね。


 でも、そこにあるのはそうした「物」だけですか? ちがいますね? それら「物」が占めているのとほぼおなじ場所を、「感覚」もまた占めていますよね?


 まさに左手というのは、ほぼおなじ場所を占めている、それら「物」と「感覚」とを合わせたもののことですね?


 いま挙げた「感覚」のほうは、ふだんみなさんに、左手の感覚(ヒダリテ・ノ・カンカク)と呼ばれます。いっぽう「物」のほうは、俺が先に提案した「身体の物」という言い方に倣えば、変に聞こえるかもしれませんけど、左手の物(ヒダリテ・ノ・ブツ)と呼べますね。


 左手とはほぼおなじ場所を占めている左手の感覚左手の物とを合わせたもののことではありませんか。


 左手は機械ではないと、みなさん、思いません?


 だって、機械にはない感覚というものがその場所に含まれているではありませんか。


 身体とは、ほぼおなじ場所を占めている「身体の物」と「身体の感覚」とを合わせたもののことである。身体には、機械にはない「感覚」が含まれる。したがって、身体は機械ではない。いまや一点の曇りもなく明確に、身体が機械なんかでは決していないことが示せましたね。

 

-----

しかし生物学史には、身体をこのように当たり前に見る向きは登場しないわけです。

-----






2/5に戻る←) (3/5) (→4/5へ進む






*今回の最初の記事(1/5)はこちら。


*前回の短編(短編NO.47)はこちら。


*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。