ピック病(前頭側頭型認知症):人格変化、自制力の低下、「浪費、過食、異食、収集、窃盗、徘徊etc」、病識がないの意味は何か(3/3)

*認知症の人間の言動は理解不可能か・第17回

(2/3に戻る←)


◆自分が病気であることの認識はない

 以上、認知症に分類される主な四つである、アルツハイマー型認知症、血管性認知症、レビー小体型認知症、ピック病を順にとり挙げ、それら症状の一つひとつがほんとうに、医学の押してきた「理解不可能」の烙印に反して「理解可能」であるか、検証してきた。最後に、⑤「自分が病気であることの認識はない」に言及してこの文章を締めくくることにしよう。


 病気を「異常」であることと定義するのであれば、こう断じることができる。


 病気と認定された人が、病気であるという自己認識をもたないのは論理的に正しいことである、と。


 どういうことか。


 そのひとは、医学になんと認定されようが実際のところ、「異常」ではない。というのも先に理論的に証明したように、この世に「異常」な人間などただの一人たりとも存在し得ない。裏返して言えば、すべての人間は正常である。自分のことを「異常」と認識することは、誤った自己認識を持つことに他ならないわけである。


 そういう意味で、そのひとたちが「病気であることの認識」をもた「ない」のは誤ったことでは決してない。


 ただしこう付け加えたい。


 俺たちが普段、健康とか病気とかと何気なく言うときその言葉で意味しているのはせいぜい、健康の場合であれば「苦しんでいない」ということ、反対に病気の場合であれば「苦しんでいる」ということと「その苦しみが手に負えない」ということくらいだろうと、この一連の続きものの文章の最初のほうの回で確認した*1。もし、そうしたみなさんの心の声が支持する意味合いで病気という言葉を用いるのなら(それは医学という学問の決してしてこなかったことであり、今後も決してしないことであるが)、そのひとたちが自分のことを病気と呼んだとしてもそれは全く筋の通ったことである、と。

関連記事
この「病識がない」ということを医学は統合失調症についても言う。かつて、その言い草が温厚なみなさんをも激怒させる理由について考察した。
精神医学の「統合失調症のひとには病識がない」という言い草に、温厚なみなさんですら激怒する理由(1/4)






(→次回)



*このシリーズの記事一覧はこちら。

*1:健康・病気という言葉の意味の、医学とみなさんの間で起こっている取り違いについて考察した部分はこちら。


わかりやすい具体例を用いて考察した回はこちら。

ピック病(前頭側頭型認知症):人格変化、自制力の低下、「浪費、過食、異食、収集、窃盗、徘徊etc」、病識がないの意味は何か(2/3)

*認知症の人間の言動は理解不可能か・第17回

(1/3に戻る←)


◆人格変化

 最初に③「人格変化」をとり挙げる。


 それは先ほどの文章のなかで「無欲、無関心」と説明されていたが、その「無欲、無関心」というのは、今までくり返し触れてきた意欲や興味の減退に当たるように思われる。アルツハイマー型認知症、血管性認知症、レビー小体型認知症と検証してきて、そのいずれでも俺たちはそこに意欲や興味の減退を認めることになった。このピック病の「無欲、無関心」もその意欲や興味の減退を意味しているのではないだろうか。


 では、仮にそうだとして、どんな意欲や興味が減退しているのか。


 ①「自制力の低下」と②「異常行動」に着目しよう。前者の①「自制力の低下」についてはふたつの具体例が挙げてあった。「相手の話は聞かずにしゃべる、短絡的になるなど」と「愛情に乏しくなる」である。そのことから、他人に配慮する意欲やそうすることへの興味が減退している、とまず言えるのではないか。


 いっぽう②「異常行動」の例として挙げられていたのは「浪費、過食、異食、収集、窃盗、徘徊、他人の家に勝手にあがるなど」である。その列記から、自分の欲求に従った行動をとった場合にもたらされるだろう未来の帰結に配慮する意欲やそうすることへの興味が減退していると言えはしないか。つまり、後先を考える意欲とそうすることへの興味が減退していると言えるのではないか。


 みなさんも普段こういった意欲や興味の減退を、いわゆる「心に余裕がない」と表現されるような状態にあるとき、おそらく経験するだろう。そうしたときみなさんは短絡的に自らの欲求に身を任せたあとしばらくしてから、しばしばこう後悔する。「嗚呼、早まった! なぜもっと他人のことを配慮しなかったのだろう」、あるいは「そんなことをしたら先がどうなるか、わかりそうなものだったのに」と。


◆「記憶の障害」などはほとんどみられない

 さて、このようにピック病にも意欲や興味の減退が起こっているのだとしても、アルツハイマー型認知症や血管性認知症とは違って、④「記憶の障害などは、ほとんどみられない」と先に記してあった。


 それは何を意味するか。


 アルツハイマー型認知症や血管性認知症の場合、激しい物忘れで起こっているのはこういうことではないかとのことだった。すなわち、それまでなら集中してすることができていた、食事や言葉のやりとりといった行動に、意欲や興味が減退していて集中できず、それらを「上の空」でするようになった。すると、「上の空」でしていたことはついいまさっきのことでも、思い出すのは難しいという物の道理に従うことになって、ついいまさっき食事をしたことや言葉を交わしたことなども思い出せなくなった(正確には「思い出せない」と表現するのは誤りであるが)*1。

 


 ピック病では、そういう日常生活上の行動に対する意欲や興味はそれほど減退しておらず、したがって、そうした行動をとるとき「上の空」になることがあまりないということではないか。で、「激しい物忘れ」は「ほとんどみられない」ということではないだろうか。






(→3/3へ)

*1:アルツハイマー型認知症の「ついいまさっきのことも思い出せなくなる」ということについて考察した回はこちら。

ピック病(前頭側頭型認知症):人格変化、自制力の低下、「浪費、過食、異食、収集、窃盗、徘徊etc」、病識がないの意味は何か(1/3)

*認知症の人間の言動は理解不可能か・第17回

(前回←)


 ここまで、認知症に分類される主な四つのうちの三つ、アルツハイマー型認知症、血管性認知症、レビー小体型認知症を見てきた。


 最後に残ったのはピック病である。


 そのピック病についても、することは今までとおなじである。


 医学はひとを認知症や軽度認知障害などと診断し、「異常」と認定することによって、そのひとたちの言動に「理解不可能」の烙印を押してきた。しかし、俺たちが理論的に確認した限りでは、「理解不可能」な人間の言動などこの世に存在し得ない*1。今回は、ピック病の症状とされる言動がほんとうにその理論どおり「理解可能」か、確認する。

 


 ピック病(前頭側頭型認知症)なるものについてはこうした説明がある。

脳の前頭葉や側頭葉が萎縮するタイプの認知症です。 この病気になると、人の話を聞かなくなったり、異常な行動(浪費、過食、徘徊など)をとったりします。画像検査(頭部CT検査や頭部MRI検査)を行い、脳の萎縮の有無を調べます。根本的な治療は確立されておらず、症状を緩和するために抗うつ薬などが用いられます。前頭側頭型認知症が疑われる人の診療は神経内科で行われます。

・URL: https://medley.life/diseases/5501775b6ef458fd3885d121/
・最終アクセス:2026年8月1日17:30


 で、その症状なるものがつぎのように列挙されている。

・自制力の低下

  • 相手の話は聞かずにしゃべる、短絡的になるなど
  • 愛情に乏しくなる


・異常行動

  • 浪費、過食、異食、収集、窃盗、徘徊、他人の家に勝手にあがるなど


・人格変化

  • 無欲、無関心


・記憶の障害などは、ほとんどみられない


・上記のような症状から、"going my way behavior(我が道を行く行動)" などと形容される特徴的な様相を呈する


・自分が病気であることの認識はない


・40-60代で発症する人が多く、比較的若いうちから認知症になる


・国内におよそ1万人ほど患者がいる


 それらのなかから、以下のものを抽出して考察していく。

①自制力の低下

  • 相手の話は聞かずにしゃべる、短絡的になるなど
  • 愛情に乏しくなる

②異常行動

  • 浪費、過食、異食、収集、窃盗、徘徊、他人の家に勝手にあがるなど

③人格変化

  • 無欲、無関心

④記憶の障害などは、ほとんどみられない

⑤自分が病気であることの認識はない






(→2/3へ)



*このシリーズの記事一覧

レビー小体型認知症:話しかけてもぼうっとして返事がない、傾眠、ちょこちょこ歩き、幻視、幻聴の理由は何か(7/7)

*認知症の人間の言動は理解不可能か・第16回

(6/7に戻る←)

(2026年9月21日にこのエントリを追加しました)


◆幻聴

 夕方ひどく疲れてきて、もしくは飽きてきて、「話しかけてもぼうとして返事がない」。そのように、見たり聞いたりといった知覚行為に、意欲や興味が減退していて集中できず、現実を気にするみなさんの心は知覚に頼ることができずにいる。で、おのずとその吐口を想像力に求めたみなさんは物思いにとらわれ、亡くなった友人が「一緒に行ったハワイ旅行、楽しかったね」と昔、喋りかけてきたのを不意に思い出す。


 ところが、自分は昔と変わっていないと信じ込んでいる当人からしてみると、そうした場面で自分が知覚行為に、意欲や興味が減退していて集中できなくなったりなんかするはずはなく、したがって、物思いにとらわれ、そんな過去を思い返したりなんかするはずはない。要するに、当人にはそのとき、そんなことを思い返したりなんかしていない「自信」がある。


 知覚行為に、意欲や興味が減退していて集中できず、物思いにとらわれることになったみなさんはふと、亡くなった友人が「一緒に行ったハワイ旅行、楽しかったね」とかつて話しかけてきたのを思い返した。それが「現実」である。しかし、当人にはそんなことを思い返したりなんかしていない「自信」がある。こうして「現実」と「自信」が背反するに至ったとき、やはり、ひとにとることのできる手は次のどちらかではないだろうか。

  • A.その背反を解消するために「自信」のほうを、「現実」に合うよう修正する。
  • B.その背反を解消するために「現実」のほうを、「自信」に合うよう修正する。


 そこで、みなさんは後者Bの手をとり、そんな場面を思い返したりなんかしていない「自信」に合うよう、「現実」をこう修正解釈する。


 亡くなった友人が「一緒に行ったハワイ旅行、楽しかったね」という声を送ってきた、と。


 これがレビー小体型認知症の⑤「幻聴」ではないだろうか。


 以上、レビー小体型認知症の④「幻視」と⑤「幻聴」についてひとつの解釈案を提示したが、ひょっとしてその「幻視」が次のようなことである可能性を考えることもできるか最後に少しだけ考察して、この文章を締めることにしよう。


 みなさんは、以前家のなかにゴキブリが出たときのことを夜中不意に思い出し、疑心暗鬼になっていたところ、自分の足元をゴキブリが横切ったような錯覚に襲われたといった経験をしたことはないか。


 あるいは夜家に帰ってきて、薄暗いアパートの階段をビクビクしながら登っていたとき、急に前方の影にひとが潜んでいるように見えて、縮み上がったというようなことは?


 もし、レビー小体型認知症の④「幻視」がそれらと同様の出来事であるとしたら、どうだろう。


 レビー小体型認知症と診断されるひとたちが夜中、不安を感じて怯えているようなとき、部屋の影に誰かが見えた気がした。


 だが、当人には、錯覚したりなんかしていない「自信」がある。


 このように、錯覚しているという「現実」と、錯覚したりなんかしていない「自信」とが背反しているとき、その「自信」に合うよう「現実」を修正すれば、誰かが実際に部屋の隅にいるのが見えた、と主張することになる。


 レビー小体型認知症の④「幻視」がそういうことである可能性は果してあるだろうか。

関連記事
統合失調症と診断されるひとの幻覚について、いま言ったような解釈を下記にてしました(パターン二つ目のほう)。
〝統合失調症〟に見られた2つのパターン(1/6)


 今回は、医学に「理解不可能」の烙印を押されてきたレビー小体型認知症の症状なるものが、医学のこれまでの説明に反し、ほんとうに「理解可能」な言動であるか検証した。






(→次回)



*このシリーズの記事一覧

レビー小体型認知症:話しかけてもぼうっとして返事がない、傾眠、ちょこちょこ歩き、幻視、幻聴の理由は何か(6/7)

*認知症の人間の言動は理解不可能か・第16回

(5/7に戻る←)


 夕方、疲れてきたり飽きてきたりして、みなさんは「話しかけてもぼうとして返事がない」。つまり、見たり聞いたり触れたりといった知覚行為に、意欲や興味が減退していて集中できず、みなさんの現実を気にする心は知覚に十分に頼ることができなくなり、その吐口を想像力に求め、物思いを始めている。


 ところが、みなさんはこれまで何十年と生きてきて、そんな場面で知覚行為に、意欲や興味が減退していて集中できず、物思いにとらわれることになったことなどかつてなかった。


 そして、みなさんは、自分はいまも昔と変わりがないと思い込んでいる。


 そんな当人からしてみると、そうした場面で自分が知覚行為に集中できなくなったり、また物思いにとらわれたりなんかするはずはない。つまり、物思いにとらわれ、人が庭を横切ってくる姿やベッドの下を水が流れている様子を思い描いておきながらも、そのとき当人には、そんなことをしていない「自信」がある。


 で、その「自信」に合うよう、その「自信」に背反する「現実」を修正解釈し、実際に人がこちらに向かって歩いてくるのが見えるなどと主張することになる。


 これがレビー小体型認知症の④「幻視」で起こっていることではないだろうか。


 これとおなじ解釈を、アルツハイマー型認知症の⑤「事実とは異なることを話の中に織り込む(作話)」についての考察でもとり、その「作話」とは実のところ、医学などが「幻覚」と呼ぶもののことでないかと以前、推測した(他の解釈可能性も提示したけれども)。その幻覚なるものがこのレビー小体型認知症でも起こっているのではないかということである。


 更にその解釈はレビー小体型認知症の④「幻聴」にも当てはまるように思われる。






(→7/7へ)

レビー小体型認知症:話しかけてもぼうっとして返事がない、傾眠、ちょこちょこ歩き、幻視、幻聴の理由は何か(5/7)

*認知症の人間の言動は理解不可能か・第16回

(4/7に戻る←)


 いま言ったことを短くまとめるとこうである。

  • (ⅰ)ある光景を目の前に思い描いている(現実)。
  • (ⅱ)そんな光景を思い描いたりなんかしていない「自信」がある(現実と背反する自信)
  • (ⅲ)その「自信」に合うよう「現実」を修正し、「ほんとうにひとが歩いてくる、ベッドの下を水が流れている」と解釈する(現実修正解釈)。


 けれども、なぜそうした光景を自ら思い描いておきながらも、そんな光景を思い描いたりなんかしていない「自信」をもて、更にはその「自信」を、「現実」を改ざんしてまで貫き通せるのか、という疑問が残るかもしれない。


 もしそうなら、ここでもう一度、これまでずっと指摘してきたことを確認し直さなければならない。


 レビー小体型認知症なるものでは①「話しかけてもぼうっとして返事がない状態」がよく見られるとのことだったが、そうしたとき、ひとの身にしばしば起こっているのは何か。


 これは、アルツハイマー病型認知症の「作話」についても確認したことであるけれども、再度みなさん自身の体験を振りかえってみてほしい。疲れていたり飽き飽きしていたりするとき、みなさんにはしばしば、見たり聞いたり触れたりといった知覚行為に、意欲や興味が減退していて集中できず、虚ろな目つきで、心ここにあらずといった表情になっていることがあるだろう。


 そうしたときみなさんは何をしているか。


 学校の授業中はどうか。先生の説明も聞かず、ぼーっとした目で、心ここにあらずといった顔をしているみなさんは何をしているか?


 会社の会議中はどうか? 上司の言葉や同僚の報告を聞き流しながら、焦点の合わない目をして、ぼんやりしているとき、または家に疲れて帰ってきてソファに腰を下ろし、据わらない目つきで、魂のぬけたような顔をしながら時間を過ごしているとき、みなさんは何をしているか?


 そうしたときみなさんは、物思いにとらわれているのではないか。


 このことを論理的に考えてみよう。見たり聞いたりといった知覚行為に、意欲や興味が減退していて集中できなくなると、どうなるか。


 みなさんの現実を気にする心は知覚に十分に頼れなくなるだろう。


 そうなると、現実を気にするその心はおのずと想像力に吐口を求め、物思いを始めることになるだろう。


 レビー小体型認知症の「話しかけてもぼうとして返事がない状態」とはまさに、この「見たり聞いたりといった知覚行為に、意欲や興味が減退していて集中できず、虚ろな目つきで、心ここにあらずといった表情をしている状態」である。なら、ちょうどいま為した、物思いにとらわれることになるとする推測がレビー小体型認知症にも当てはまることになる。






(→6/7へ)

レビー小体型認知症:話しかけてもぼうっとして返事がない、傾眠、ちょこちょこ歩き、幻視、幻聴の理由は何か(4/7)

*認知症の人間の言動は理解不可能か・第16回

(3/7に戻る←)


◆幻視

 さてここまで、レビー小体型認知症の症状なるものの①から③までを点検してきた。


 最後に④「幻視」と⑤「幻聴」を一気に見て終わろう。


 ④「幻視」については、「黒い服を着た人が庭を歩いて来る」「ベッドの下に水が流れている」「(亡くなっている)お父さんが台所に座っている」といったような訴えが繰り返しなされるとのことだった。


 いっぽう⑤「幻聴」は、聞こえるはずのない声が聞こえることもまれにある、と説明されていた。


 では、なぜそんなこの世に存在していないものが見え、この世に鳴っていない音がまれとはいえ、聞こえるのか。


 みなさんの日々の生活場面を考えてみてほしい。


 みなさんが日常生活で、この世に存在しないものを見たり、この世に鳴っていない音を聞いたりすることがあるとすれば、それはどんなときか。


 それは、みなさんがそうした姿や音を思い描いている(夢で見ている場合も含む。以下同様)ときだろう。


 ならば、このレビー小体型認知症の幻視や幻聴と呼ばれるものの場合も同様でないか、とまず考えてみるのが、そのひとたちのことを自分とおなじ人間であると当たり前のように思い為している者のすることだろう。


「黒い服を着た人が庭を歩いて来る」のや、「ベッドの下に水が流れている」様子、あるいは「(亡くなっている)お父さんが台所に座っている」姿などが見えているとき、そのひとたちはそうした光景を目の前に思い描いているのではないか。


 ところが、そのひとたちからしてみると、自分がそういった場面でそんな光景を思い描いたりなんかするはずはない。


 つまり、そのひとたちにはそのとき、そんな光景を思い描いたりなんかしていない「自信」がある。


 このように、そうした光景を思い描いているという揺るぎない「現実」と、そんな光景を思い描いたりなんかしていない「自信」とが背反するとき、ひとにとることのできる手は主につぎの二つのうちのいずれかである。

  • A.その背反を解消するために「自信」のほうを、「現実」に合うよう修正する。
  • B.その背反を解消するために「現実」のほうを、「自信」に合うよう修正する。


 そこで後者Bの手が選ばれ、そんな光景を思い描いたりなんかしていない「自信」に合うよう「現実」が次のように修正される。


 ほんとうに「黒い服を着た人が庭を歩いて来ている」


 ほんとうに「ベッドの下に水が流れている」


 ほんとうに「(亡くなっている)お父さんが台所に座っている」


 これがこのレビー小体型認知症の④「幻視」ではないだろうか。

 





(→5/7へ)