(新)Nothing happens to me.

科学はボタンをかけ違えたまま来たのではないでしょうか。

西洋学問に人間が理解できなくなった瞬間③

科学するほど人間理解から遠ざかる第19回

②のつづき

 以上、物を見るということについて確認しなおす、いわゆる〈出発点〉で、西洋学問が「絵の存在否定」という不適切な操作をどのようになすか、例をもちいて見てきました。


 結果、こういうことにするとのことでした。

俺が現に目の当たりにしている物の姿(もちいた例では、大木の姿)を、俺の心のなかにある映像であることにする。

.その代わりに、俺の前方にある物を、ただ無応答で在るだけの、見えることのないものであることにする。


 西洋学問ではこの要領で、俺が現に聞いているスタジアムの歓声(音)も、俺が現に嗅いでいるコーヒーの匂いも、俺が現に味わっているチョコレートの味も、何もかも、俺が体験しているものはみな俺の心のなかにある像にすぎないということにします。物も、音も、匂いも、味も、存在するものはすべてただただ無応答に在るだけで、見ることも触れることも聞くことも嗅ぐことも味わうこともできない、ということにします。


 先に、快さ苦しさが何であるかを俺が理解するに至った道筋をみなさんと一緒にたどっているさい*1いわゆる〈第2地点〉で、存在同士が、応答し合いながら共に在ることを確認しましたけれども、「絵の存在否定」という不適切な操作をなす西洋学問のもとでは、いま確認しましたように、存在同士は一転お互いに無応答であることにされます*2


 西洋学問ではいわゆる〈第2地点〉を通過できないことがいま、確認されました。


 これでは、〈第3地点〉以後には進めず、快さ苦しさが何であるかを理解する〈第5地点〉にはたどり着けないと言うべきではないでしょうか。


 西洋学問ではこれまで、快さ苦しさが何であるかは理解されてきませんでした。これからも理解されることはないものと思われます。

(第2部終了、第3部につづく)


次回は11月25日(日)朝9:00にお目にかかります。


今回はこのシリーズの第20回目(①、②、③)でした。

第20回目①

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第20回目②

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*1:その道筋は箇条書きで書けばこういったものになるとのことでした。

出発点.物を見るとはどういうことか確認しなおす。

第2地点.存在同士が、応答し合いながら共に在ることを確認する。

第3地点.存在同士が、応答し合いながら共に在るというのは、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるということであると確認する(問いの読み替え1)。

第4地点.さらにそれが、「今どうしようとするか」という問いに俺が身をもって答えることであるのを確認する(問いの読み替え2)。

第5地点.「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」のを快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」のを苦しさを感じていると言うのだと理解する。

*2:存在をこうした別ものにすり替える作業を、「存在の客観化」と俺はよんでいます。近代哲学の祖で、科学が歩みゆく道を切り開き、整備したデカルトが、この「存在の客観化」を著書でくわしく披瀝しています。

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

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ちなみに、その模様については以下のシリーズで書きました。

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西洋学問に人間が理解できなくなった瞬間②

科学するほど人間理解から遠ざかる第19回

①のつづき

 さて、「絵の存在否定」という不適切な操作をなした結果、大木が俺に見えていないことになるのをいま確認しました。俺がその瞬間に目を閉じていようが、開けていようが、はたまたサングラスをかけていようが、大木に背を向けていようが、あるいは大木のほうを向いていようが、大木は見えないままで、何ら変わらない、ということになりました。


 西洋学問ではここで一気に大木を、ただ無応答で在るだけのもの(客観的なもの)と決めつけます。


 すなわち、大木を、そのとき俺が目を閉じていようが、開けていようが、サングラスをかけていようが、大木に背を向けていようが、大木のほうを向いていようが、「何ら変わることのないもの」と考えるにとどまらず、そのとき俺が遠く離れたところから眺めていようとも、至近距離から見ていようとも、太陽が雲間にかくれていようとも、雲間から太陽が顔を覗かせていようとも、「何ら変わることはないもの」とまで決めつけるというわけです。


 しかし先ほどからみなさん、つぎのようにおっしゃりたくてウズウズしておられたのではないでしょうか。


「でも、その瞬間、お前さんに大木が見えていないことになると言ったって、現にお前さん、そのとき大木の姿を目の当たりにしているじゃないか」と。


 西洋学問はそうしたまっとうな指摘にこう対処します。


 まず、その瞬間、俺に大木が見えていないということにするために、意識とか精神とか心とかコギトとかとよばれるもの(ほんとうはこの世にそんなものは存在しませんが)を説明にもちだしてきます。そして、その瞬間に俺が現に目の当たりにしている大木の姿(ほんとうは俺の前方数十メートルのところにあります)俺の心のなかにある映像にすぎないことにし、俺の前方数十メートルの場所には代わりに、ちょうどいま申し上げました、見ることのできない、ただ無応答で在るだけの大木が実在しているということにします。

省察 (ちくま学芸文庫)

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情念論 (岩波文庫)

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哲学 原典資料集

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ひとつまえの記事はこちら。

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西洋学問に人間が理解できなくなった瞬間①

科学するほど人間理解から遠ざかる第19回

 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところ(いわゆる〈出発点〉から、長い時間をかけてたどってきました*1


 西洋学問では、そのいわゆる〈出発点〉でつまずいたばっかりに、以後、快さや苦しさが何であるかが理解できなくなったということを、これから確認します。


 いわゆるその〈出発点〉で、物を見るということについて俺がどう確認しなおしたか、みなさん、いますぐご想起になれますか。並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を俺が見ているある一瞬をみなさんにご想像いただきながら、その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿と、その瞬間の俺の身体について、それぞれどのようにあるかをまず確認しました。で、そのあと、たがいに数十メートル離れたところにある、それら大木の姿と、俺の身体とがそのとき、俺のしている体験(大木を見ているという体験)に共に参加しているのを確認しました。すなわち、それらふたつは、そのとき共に、俺のしている体験の部分であるということでした。


 そのさい、みなさん、そんなごくごく当たりまえのことをわざわざ確認してどうなるのか、と怪訝にお思いになったのではなかったでしょうか*2


 どうでしょう、思い出してごらんになれましたか。


 ところが西洋学問では、その〈出発点〉で、ある不適切な操作をしでかします。その操作を、かつて俺が勝手につけた、絵の存在否定という名で以後呼ぶことをお許しください。


 その「絵の存在否定」という不適切な操作はいまの場合、つぎのふたつをするところからはじまります。俺が大木を目の当たりにしているその瞬間、

.大木と俺の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。

.しかし、たがいに数十メートル離れたところにある、それら大木と俺の身体とを、「俺のしている体験に共に参加している」ことはないもの同士と考える。すなわち、大木を、俺のしている体験の部分であるとは認めない(部分であることを否認)。


 するとどうなるか。


 その瞬間、「大木を見ているという俺の体験は存在していないことになります。俺にはそのとき大木は見えていないことになります。見えていない大木と俺の身体とが、たがいに離れた場所にただバラバラにあるだけということになります(3.絵が存在していないことになる)。


「俺のしている体験に共に参加している」ことのないもの同士であると解された、大木と俺の身体なんかをどう足し合わせても、「大木を見ているという俺の体験」は出てきません。


前回の記事はこちら。

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*1:その道筋は、箇条書きで書けばこういったものでした。参考程度に挙げておきます。

出発点.物を見るとはどういうことか確認しなおす。

第2地点.存在同士が、応答し合いながら共に在ることを確認する。

第3地点.存在同士が、応答し合いながら共に在るというのは、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるということであると確認する(問いの読み替え1)。

第4地点.さらにそれが、「今どうしようとするか」という問いに俺が身をもって答えることであるのを確認する(問いの読み替え2)。

第5地点.「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」のを快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」のを苦しさを感じていると言うのだと理解する。

*2:第11回 

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西洋学問では、快さや苦しさが何であるか理解できない

科学するほど人間理解から遠ざかる第18回

 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点からたどってきました。


 その道筋を簡単にふり返ってみます。


出発点.物を見るとはどういうことか確認しなおす。

第2地点.存在同士が、応答し合いながら共に在るのを確認する。

第3地点.存在同士が、「応答し合いながら共に在る」というのは、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるということであると確認する(問いの読み替え1)。

第4地点.さらにそれが、「今どうしようとするか」という問いに俺が身をもって答えることであるのを確認する(問いの読み替え2)。

第5地点.「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」のを快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」のを苦しさを感じていると言うのだと理解する。


 快さと苦しさをこのように俺が理解するに至った昔話に、みなさん、ここまで長らくつきあわされてこられました。


 なぜそんな酷い目につきあわされてこられたのか。


 これまで西洋学問では快さや苦しさが何であるか理解されてこなかったその理由を明らかにするためでした。


 いまやみなさんはきっとこうお考えのことでしょう。


 もし筆者(俺のこと)のこうした昔話がそれなりに信頼するに足りるものなら、西洋学問では前記の〈出発点〉、もしくは〈第2地点〉のどちらかの確認でヘマをしでかし、その結果、〈第5地点〉にたどりつけなくなった、ということになるんじゃないか、と。


〈第2地点〉から〈第5地点〉まではエスカレーター式で、〈第2地点〉の確認を済ませば、あとは自動的に〈第5地点〉まで行けます。だとすれば、〈出発点〉か〈第2地点〉の確認で躓いたことになります。


 どうでしょう、みなさん、図星でしょうか。


 もしそうご推測なら、俺はみなさんと考えがおなじだと胸を張れますが、いかがでしょう。


 西洋学問では、物を見るということについて確認する最初の段階でいきなり躓き、快さや苦しさが何であるか理解するところまで以後たどり着けなくなったというのが、俺の見立てです。


 これから、その躓きを見ていきます。

つづく


今回はこのシリーズの第18回目でした。

第1回(まえがき)

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第2回(まえがき+このシリーズの目次)

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第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)

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第4回

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第5回

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第6回

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第7回

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第8回(西洋学問で快さと苦しさが何であるか理解できてこなかった理由を確認します。第19回③まで)

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第9回

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第10回

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第11回

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第12回

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第13回

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第14回

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第15回

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第16回

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第17回

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快さや苦しさが何であるか理解できたとき

科学するほど人間理解から遠ざかる第17回

 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋をその道の出発点からたどっています


 俺が並木道を大木めざし歩いているといった場面をここまでみなさんにご想像いただいてきました。そうして歩いているあいだ(だけには限られませんが)、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、音、俺の「過去体験記憶」、俺の「未来体験予想」等が、「応答し合いながら共に在る」のをご確認いただきました。


 では最後に、それら大木等が「応答し合いながら共に在る」というこのことが何を意味しているのか、見ていきます。


 みなさん、覚えていらっしゃるでしょうか。快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると冒頭で補足確認するとき、いきなりみなさんにこうお尋ねしました。


 ご自身のいまこの瞬間もくしは過去の任意の一瞬の状態をご教示くださいと俺がお願いしますと、みなさんどうお答えくださいますか、と*1


 おそらくみなさんどなたもそのぶしつけなお願いに、会話中であるとか食事中だったといったように、「〜いった言い方をもちいてお答えくださるか、さもなくば、会話をしているとか食事をしていたといったように、「〜している/していたいった文末表現をもちいてお答えくださるのではないか、とのことでした。


 このように「〜中」とか「〜している/していた」といった表現をもちいてお答えくださるというのは、生きておられるうちのどの瞬間をとってもみなさんは出来事の最中におられるということであって、言ってみれば、みなさんは生きておられるあいだ、どの瞬間でも、「今をどういった出来事の最中とするかという問いに身をもってお答えであるということだ(言い換えれば、身をもってを出来事の最中としておいでであるということだ)とそのさい申し上げました(「今」というひと言で「今という一瞬」を表現しています)。


 過去をふり返ることによっていま重要なことがひとつ明らかになりました。


 大木めざして俺が並木道を歩いているあいだ(だけには限られませんが)、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、音、俺の「過去体験記憶」、俺の「未来体験予想」等が、「応答し合いながら共に在るというのはそれら大木等にとってはまさに、一丸となって、「今をどういった出来事の最中とするかという問いに答えるということである(一丸となって、「今」を出来事の最中とすることである)、といま明らかになりました。


「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに大木等が一丸となって答えるというこのことは、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えることと言い換えられます。


 さて、ずっとまえのところで確認しておきました。「今を・どういった・出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるというこのことは、「今・どう・しようとするか」という問いに俺が身をもって答えることとさらに言い換えられます。


 したがって、大木等が、「応答し合いながら共に在る」というのは、「今を・どういった・出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるということであり、ひいては、「今・どう・しようとするか」という問いに俺が身をもって答えることであると申せます。


 さあ、ここでつぎのことを再確認します。

1.みなさんは、生きておられるあいだどの瞬間でも、「今・どう・しようとするか」という問いに身をもってお答えになる。

2.「今・しようとしている」ことが、行動とか行為とか運動とかとよばれるものである(「今・なにを・しようとしているか」を言えば、どういった行動をとっているか表現していることになる)。

3.そのように答えているときに、「今どうしようとするか、かなりはっきりしてい」れば、快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていな」ければ、苦しさを感じていると表現する*2


 以上、俺が、物を見るということについて確認しなおすところからはじめ、快さ苦しさが何であるかを理解するに至った道筋をご確認いただきました。


 西洋学問では、この道のどこで足を踏みはずし、その結果、快さや苦しさが何であるかを理解できなくなったのか、つぎに見ていきます。

つづく


前回の記事はこちら。

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*1:第4回

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*2:「今どうしようとするか」という問いがかなり解決していれば、快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか」という問いがあまり解決していなければ、苦しさを感じていると表現するといった言い方もまえのほうでしました。

過去体験記憶、未来体験予想、現在、の三つどもえ②

科学するほど人間理解から遠ざかる第16回

①のつづき

 最初に過去体験記憶のほうから見ます。俺の身体と俺の「過去体験記憶」の間柄に特にご注目いただくことにしましょうか。


 みなさん、俺が並木道を大木に向かって歩いている場面を先ほどご想像なさっていたときのことを思い返してごらんください。途中、俺が怪訝な動きをしたのをみなさん覚えておいでではないでしょうか。そのまままっすぐ大木に向かっていけばよいものを、途中、なぜかあるところで縦に半円を書くような進みかた*1を急に俺はしました。


 あ、やっぱり覚えておいででしたか。


 実は俺、そのあたりに犬か何かのウンコちゃんが落ちているのを、大木に歩みより出すまえにたまたま目撃していました。で、大木に向かって歩みはじめたあと、そのあたりにさしかかったところで不意に、目撃したそのときのことを思い出すと同時に、ボクサーのような機敏なステップをとっさに踏んで  踏んだのがステップのほうだったことに自分でもびっくりしました  進路を変えたという次第です。


 俺の身体(「身体の感覚部分」と「身体の物部分」とを合わせたもののこと)が、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えているのをみなさんにはご確認いただいてきましたが、その「他のもののなかには、これまで数えあげてきた、大木、太陽、雲、道、他人の身体、音らのみならず、俺のそのときの過去体験記憶も含まれているということ、さらに言えば、俺の身体、大木、太陽、雲、道、他人の身体、音等が、「応答し合いながら共に在る」、その応答し合いのなかに、俺の「過去体験記憶」も含まれているということをいまご確認いただきました。


 つぎはおなじようにして「未来体験予想についても確認します。今度は俺の身体と俺の「未来体験予想」のあいだに特にご注目いただきましょう。


 俺が並木道を大木に向かって歩いていた理由をみなさんは何とお考えになりますか。


 俺はその大木の下にいらっしゃるのがみなさんであると思えばこそ、そうです、みなさんとじかにお話するという恩恵に浴することができると思えばこそ、そうしてわさわざ大木のもとに歩みよっていたわけです(キモいとお感じのかたにはお詫び申し上げます)。


 ところがどうです、大木の下に立っているそのひとがこちらに向けていた背をひるがえすと、なんとみなさんじゃなかった!


 キラキラと輝いていた未来が消滅したその瞬間急にチカラがぬけ、俺はその場(大木まであと20メートルほどのところ)にへたり込んでしまいました。数分後ようやく立ち上がって歩き出した俺の、肩を落とした背中が、大木に向けられていたのは言うまでもありません。


 先ほども申しましたように、俺の身体が、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えているのをみなさんにご確認いただいてきましたが、その「他のもののなかには俺のそのときの未来体験予想も含まれるということ、さらに言えば、俺の身体、大木、太陽、雲、道、他人の身体、音、俺の「過去体験記憶」等が、「応答し合いながら共に在る」、その応答し合いのなかに、俺の「未来体験予想」も含まれるということを確認しました。

つづく


ひとつまえの記事はこちら。

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今回は第16回①②でした。

第15回はこちら。

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*1:山手線を品川駅から、新宿駅経由で、巣鴨駅に行くような進みかた。

過去体験記憶、未来体験予想、現在、の三つどもえ①

科学するほど人間理解から遠ざかる第16回

 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということである*1俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところからたどっています


 俺が大木めがけて並木道を歩いている場面をみなさんにご想像いただいてきました。それは、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、他人の身体、音等が、応答し合いながら共に在るのをご確認いただくということでした。


 しかし、補足しておかなければならないことがひとつあります。


 それは過去の記憶未来の予想についてです。


 ご想起ください。俺は大木に歩みよっているあいだどの瞬間でも、つぎのふたつのことをしていました。

1.自分がその大木に、その瞬間までどのように歩みよってきたか、過去体験を記憶していた。

2.自分がその大木に、その瞬間よりあとどのように歩みよっていくか、未来体験を予想していた。


 これら、その瞬間に記憶されている過去体験と、予想されている未来体験とをそれぞれ、過去体験記憶未来体験予想と以後よぶことにします。


 先刻申しましたように、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、他人の身体、音等は、「応答し合いながら共に在る」ということでしたが、そのように「応答し合いながら共に在る」もののなかに実は、俺の過去体験記憶未来体験予想も含まれるということを以下、順に確認させていただきます。


前回の記事はこちら。

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*1:快さと苦しさがこうしたものであることを以下の回で確認しました。

第3回

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第4回

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第5回

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第6回

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第7回

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