(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

漢字、絵、あんパンをもちいて「科学」の原点を探る(4/4)

*「科学」を定義する第2回

4/3からのつづき

◇本題:あんパン

 みなさんの目のまえのテーブル上にあんパンがひとつのっていて、いまみなさんはそのあんパンを見ていると今度は想像してみてくださいよ。


 そのあんパンの姿は、みなさんの眼前xセンチメートルのところにありますね?


 でも科学にはこうとしか思われません。


 あんパンがいまわたしに見えている。ということは、そのあんパンの姿は、わたしの心のなかにあるのだ、って。


 どういうことでしょうか。犬という漢字と、ヨットの絵とをもちいて先に準備しておいたところをいまから活かしながら考察していきますね。


 みなさんにはいま、眼前xセンチメートルのところにあるあんパンを見てもらっていますね。みなさんが見ているそのあんパンの姿は、みなさんの眼前xセンチメートルのところにありますね。互いにxセンチメートル離れたところにある、その「あんパンの姿」と「みなさんの身体」のふたつは、すこし変な言い方になりますけど、いまみなさんがしている体験(目のまえのあんパンを見ているという体験)に共に参加している、と言えますね。


 つまり、互いにxセンチメートル離れたところにあるその「あんパンの姿」と、「みなさんの身体」とは、いまみなさんがしている体験の部分ですよね。


 だけど科学は、互いに離れたところにある、それらふたつを、いまみなさんのしている体験の「部分」であるとは認めません。


 いや、さすがに、あんパンと、みなさんの身体とが、いま現に在る場所にそれぞれ位置を占めているのは科学も認めますよ。だけど、互いに離れたところにある、あんパンとみなさんの身体のふたつを、「みなさんのしている体験に共に参加している」ことの無いもの同士と考えるわけですよ。要するに、犬という漢字と、ヨットの絵とをもちいて見た例のふたつの操作をするわけですよ。

  1. あんぱんとみなさんの身体とが、現に在る場所にそれぞれ位置を占めているのは認める(位置の承認)
  2. しかし、互いに離れたところにある、それらあんパンとみなさんの身体のふたつを、「みなさんのしている体験に共に参加している」ことの無いもの同士と考える(部分であることの否認)


 すると、どうなります? 


 xセンチメートル離れたところにあるあんパンの姿を見ているというみなさんの体験(全体)忽然と、存在していないことになりますよね。


 つまり、あんパンとみなさんの身体とは、互いに離れたところにただバラバラに在るだけであって、みなさんには離れたところにあるそのあんパンは見えていないということになりますね?


 したがって、みなさんが現に見ているあんパンの姿は、みなさんから離れたところにあるのではなくなりますね?


 結局、みなさんの心のなかにある映像であるとしか考えられなくなりますね?


 確認してきてきたことを、ここで最後にまとめます。


 覚えてくれていますか。最初に、俺なら科学をこう定義づけると言いましたよ。みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるものでなく、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするものこそが科学である、って。で、そう言ったあと、科学には、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、そんなふうにみなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしなければならない事情があるんだと付け加えましたね? その事情をここまで、ふたつの例を活用しながら見てきました。「絵の存在否定という不適切な操作(部分を部分であると認めることを拒否することによって全体の存在を認められなくなること)を為す科学には、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんから離れたところにあるものと現実どおりに認めることができず、みなさんの心のなかにある映像であるとしか考えられない、とのことでしたね。

(了)


今回は記事を(1/4)、(2/4)、(3/4)、(4/4)の4つに分けてお送りしました。

  • ひとつまえの記事(3/4)はこちら。

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漢字、絵、あんパンをもちいて「科学」の原点を探る(3/4)

*「科学」を定義する第2回

2/4からのつづき

◆ふたつ目の例:絵

 みなさん、今度は、壁にかかった一枚の絵を想像してみてくれますか。見わたすかぎりの青い空、その下には一面にひろがる青い海、そしてその大海原に浮かぶ真っ白な一隻のヨット。みなさんはいま、一面の青のなかにポツリと白い点が浮かぶその絵を、真ん前に立って見ているとします。


 そのヨットの「白」と、空と海の「青」のふたつについて今度は考えてみましょうよ。


 当たりまえのことをここでもちょっと変わったふうに表現することになりますが、いまみなさんが見ていることになっているその「白」と「青」のふたつは、ひとつの絵に共に参加していると言えますよね。


 では、さっそく先ほど見たふたつの操作をこの絵にもやってみましょうか。まず、その「白」と「青」のふたつが、カンバス上の現に塗られた場所にそれぞれ位置を占めているのを認めてみましょうか。これがひとつ目の操作ですね。ついで、ふたつ目の操作を矢継ぎ早にしてみましょうか。それら「白」と「青」のふたつを、「ひとつの絵に共に参加している」ことの無いもの同士であると考えてみましょうか。

  1. 「白」と「青」が、カンバス上の現に塗られた場所にそれぞれ位置を占めているのを認める(位置の承認)。
  2. それら「白」と「青」のふたつを、「ひとつの絵に共に参加している」ことの無いもの同士と考える(部分であることの否認)。


 するとどうなるとみなさん思います? 目のまえには、「白」と「青」のふたつがただバラバラに在るだけであって、一面の青のなかにポツリと白い点が浮かんでいるという絵は存在していないということになりませんか。


 そして、「ひとつの絵に共に参加している」ことの無いもの同士であると考えられることになったその「白」と「青」のふたつをどう足し合わせてみても、一面の青のなかにポツリと白い点が浮かんでいるという絵は出てこないということになりませんか。


 つまり、さっきの犬という漢字の場合とおなじことになりませんか。


 いや、なりますよね。


 いま、例のふたつの操作を絵にしてもらいましたよ。「白」と「青」が、カンバス上の現に塗られた場所にそれぞれ位置を占めているのは認める(ひとつ目の操作)。しかし、それら「白」と「青」のふたつを、「ひとつの絵に共に参加している」ことの無いもの同士と考える(ふたつ目の操作)。果してこれは何をしたことになるのでしょうね。この場合もまた、「白」と「青」のふたつを絵の部分であると認めることを拒否したことになるのではないでしょうか。そのように「部分」であると認めることを拒否することによって、青一面のなかに白い点がポツリと浮かんでいるという絵(全体の存在を認められなくなったということなのではないでしょうか。


 犬という漢字と、ヨットの絵のふたつにいま、おなじ操作をしてもらいましたね。すると、どちらの場合でもおなじことが起きました。犬という漢字のほうでは、その各部分(「大」と「右上の点」)がそれぞれ存在しているのは認められるものの、犬という漢字(全体)は忽然として存在していないことになりましたね。いっぽう絵のほうでは、各部分(「白」と「青」)がそれぞれ存在しているのは認められるものの、「全体」の絵は存在していないことになりましたね。ここまで見てきたこうした操作を以後、「絵が存在していないことになる」というその帰結から(漢字も絵と見ることができますね)、絵の存在否定、と呼ぶことにでもしておきましょうか。


 さて、最初に、あんパンをもちいて科学をこう定義づけましたよね。みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするものこそが科学である、って。で、そのとき、こう言いましたね? 科学には、みなさんが現に見ているあんパンの姿をみなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしなくてはならない事情があるのだ、って。


 その事情とは、この「絵の存在否定」のことを指しますよ。


 どういうことか、いまから詳しく見ていきますね。


今回は記事を(1/4)、(2/4)、(3/4)、(4/4)の4つに分けてお送りしています。

  • ひとつまえの記事(2/4)はこちら。


前回(第1回)の記事はこちら。


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漢字、絵、あんパンをもちいて「科学」の原点を探る(2/4)

*「科学」を定義する第3回

1/4からのつづき

◇ひとつ目の例:漢字

 早速、いまみなさんの目のまえに、犬という漢字がひとつ書かれた白い紙があると想像してみてくださいよ。その漢字を「大」という部分と「右上の点」のふたつに分けて考えてみますね。以下、俺の文章を読んでいるあいだもみなさんはその犬という字を見ているものと仮定して、読み進めていってくれますか。


 さあ、ようく想像してみてくださいよ。いまみなさんは、犬という漢字を目の当たりにしています。みなさんがそうして見ている「大」と「右上の点」のふたつはいま、ひとつの漢字(犬)に共に参加していると言えますよね。


 いまちょっと変な言い方をしましたけど、別にたいしたことは言ってませんよ。当たりまえのことを拙くもわざわざ言葉にしただけですよ。


 では、ここでつぎのふたつの操作をしてみましょうか。


 まず、その「大」と「右上の点」のふたつが、現に書かれた場所にそれぞれ位置を占めているのを認めてみましょうか。それがひとつ目の操作です。


 つぎに、その「大」と「右上の点」のふたつを、「ひとつの漢字に共に参加している」ことの無いもの同士と考えてみましょうか。これがふたつ目の操作です。

  1. 「大」と「右上の点」とが、現に書かれた場所にそれぞれ位置を占めているのは認める(位置の承認)。
  2. それらふたつを、「ひとつの漢字に共に参加している」ことの無いもの同士であると考える(○○であることの否認→○○には何が入るでしょう。答えはあとで)。


 すると、どうなると思います? みなさん、想像してみてくれますか。


 みなさんの目のまえに「大」と「点」とがそれぞれ在るのは見えるが、犬という漢字が存在しているのは認められなくなる、のではありませんか。「大」と「点」とがただバラバラに在るだけで、犬という漢字は存在していないということになりませんか。


 そして、「ひとつの漢字に共に参加している」ことの無いもの同士であると考えられることになった「大」と「点」とをどう足し合わせても、犬という漢字は出てこないということになりませんか。


 いま、犬という漢字をもちいてみなさんに、あるふたつの操作をしてもらいましたね。すると、「大」と「点」とがただバラバラに在るだけで、犬という漢字は存在していないということになりましたね。


 でも、いったいそのふたつの操作は何を意味するのでしょうね? もう一度、そのふたつの操作についてようく考えてみましょうか。


「大」と「右上の点」とが、現に書かれた場所にそれぞれ位置を占めているのは認める(操作1)。しかし、その「大」と「右上の点」とを、「ひとつの漢字に共に参加している」ことの無いもの同士と考える(操作2)。どうでしょう。これは、「大」と「右上の点」とを犬という漢字の部分であると認めることを拒否することなのではないでしょうか。


 そのように「部分」であると認めることを拒否することによって、犬という漢字(全体が存在しているのを認められなくなること、なのではないでしょうか(先のクイズの答え:○○のなかに入るのは「部分」でした)。


 つぎはそのふたつの操作を、絵にやってみますね。


今回は記事を(1/4)、(2/4)、(3/4)、(4/4)の4つに分けてお送りしています。

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漢字、絵、あんパンをもちいて「科学」の原点を探る(1/4)

*「科学」を定義する第2回

目次
・科学を定義する
・ひとつ目の例:漢字
・ふたつ目の例:絵
・本    題:あんパン

◆科学を定義する

「科学」「科学」とひとはしきりに言いますね。でも、いったいどういった意味合いで、その「科学」という言葉をひとは使っているのでしょうね?


 みなさんなら科学をどう定義づけます?


 俺はこう定義づけてみてはどうかと思います。みなさんが、眼前のテーブル上にあるあんパンを見ていると仮定してみてくださいよ。みなさんが見ているそのあんパンの姿は、みなさんの眼前数十センチメートルのところにありますね? にもかかわらず、そのあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするものこそが科学である、って。


 みなさんが現に見ているあんパンの姿を、科学がそのように、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするのは、事実ですよね。脳科学の本なんかには、当たりまえのようにそう書いてありますよね。「見るとは、外界のイメージを脳(心)のなかに作ることだ」といったふうに、ね? でも、みなさんが見ているあんパンの姿が実際にあるのはやはり、みなさんの眼前数十センチメートルのところじゃないですか。なのになぜ科学には、あんパンの姿を、心のなかにある映像にすぎないと考えることができるのでしょうね?


 みなさんが見ているあんパンの姿を、どうしても、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしなければならない事情が科学にはある、ということなのではないでしょうか。


 今回はその事情を追っていきます


 最初に例をふたつもちいて準備したあと核心に迫る、という手順を踏んでいきますね。


今回は記事を(1/4)、(2/4)、(3/4)、(4/4)の4つに分けてお送りします。


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あんパンをもちいて「科学」を定義する

*「科学」を定義する第1回

 最近、「○○の科学」というタイトルの本をかなり目にしますよね。


 でも正直、みなさん、疑問を覚えません?


 それはいったいどういった意味合いで、「科学」という言葉を使っているのだろうか、って。その「科学」という言葉に、しっかりした意味はあるのだろうか、って。


「科学」という言葉で、何か特別なもののことを指しているはずですよね? ごくごくありふれたものにわざわざ、「科学」という意味ありげな名前はつけませんね?


 だけど、どういった特別なもののことを指して、「科学と言っているのかイマイチ伝わってこないような気がしません? 数字やデータを扱うことそれ自体は、何も「科学」と呼ぶほど、特別なことではありませんね(お金の勘定を「科学」と呼びます?)?


 ひょっとすると、そうした本の幾ばくかは、「科学」という言葉をただ何となく、流行にのっかって使っているだけかもしれませんね。


「科学的であることが求められる」とか「××は非科学的であるとのソシリを免れない」などと言っていても、しょせん、科学と非科学の区別を勘を頼りにつけているにすぎないのかもしれませんね。


 みなさんなら科学をどう定義づけます


 えっ、俺?


 う〜ん、そうですね、俺はこう定義づけてみてはどうかと思います。いまみなさんが、眼前のテーブル上にある、あんパンを見ているとしますね。みなさんが見ているそのあんパンの姿は、みなさんの眼前数十センチメートルのところにありますよね。にもかかわらず、そのあんパンの姿をみなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするものこそが科学なのである、って。


 そう定義づけると、「科学」がいかに特別なものかハッキリしてきません?

(了)


次回(第2回)の記事はこちら。


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精神医学は差別する

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」予告編

(分量:文庫本約5ページ)

 いまから数年まえ、ある殺人事件が起こって、テレビやネットが騒然となりました。当時、強い憤りを覚えたひとは多かったのではないでしょうか。


 俺は、憤るというより、ほとほとウンザリした方でしたけど。


 ひょっとしてみなさん、こう漠然と言っただけで、そのときのこと思い出しました? その犯人が逮捕されるやいなや、テレビがまたぞろ意味ありげに、その人間には精神病院への通院歴があったと報じたこと。新聞が「犯人は××症である」と書きたてたこと。そういった報道にたいし、精神疾患のあるひとたちへの差別に当たると判で押したような批判があがったことや、そうした批判にたいする「果してほんとうに精神疾患と殺しは無関係なのか」といった再批判がなされたりしたことどもを?


 いつまでこんなことをくり返しているのだろうと、俺、心底嫌気がさしましたよ。


 みなさん、そんな俺がいま手にもって、PCもしくはスマホ画面の向こうにいるみなさんに突き出しているこの本のタイトル、読めますか。


 岡田尊司精神科医)著『統合失調症PHP新書、2010年(良い本ですね、購入をお勧めします)、この本の一部文章をいまから読み上げるの、ちょっと聞いてみてくれません?

 統合失調症は、およそ百人に一人が罹患することになる、頻度の高い、身近な疾患である。にもかかわらず、多くの人にとっては、まだ縁遠い不可解な疾患でしかないのが現状である。昔に比べれば、精神科の垣根も低くなったとはいえ、精神病に対しては依然根深い偏見があり、病気のことを知られることに不安を感じ、家族が、統合失調症患者をひた隠しにしようとする場合もある。そうせざるを得ない現実があるのだ。秘め隠すことで現実を知ってもらえず、余計に周囲の理解が育まれないという悪循環もあった。


 だが、今や時代は大きく変わろうとしている。是非、この疾患について、もっと多くの人に知ってもらい、正しい理解をもってほしい。そして、この疾患の過酷な側面とともに、実に人間的で、親しみの湧く側面にも出合っていただければと思う(同書4ページ、ただしゴシック化は引用者による)。

統合失調症 (PHP新書)

統合失調症 (PHP新書)

 


 こうした論調にはみなさんよく出くわしますよね? 箇条書きにするとこうなりますね。

  1. 世間には、精神病を患っているひとたちにたいする根強い「偏見」が未だにある。
  2. 精神医学による「正しい理解」が世間に浸透していないということである。
  3. そうした差別をなくすために精神医学による「正しい理解」を世間に広めていかなければならない。


 けど、ほんとうにそうでしょうか。僭越ながら俺にはそういった見方がまるっきり見当違い  すみません、偉そうな口をきいて  のように思われてなりません。


 精神医学がひとを正しく理解したことなどかつて一度もありはしなかったのではないでしょうか。精神医学がしてきたことといえばせいぜい世間の偏見に権威的なお墨つきを与えることくらいだったのではないでしょうか。


 俺、極端なことを口走ってます? いや、たしかにちょっと言い過ぎたかもしれませんね。


 でも、岡田精神科医自身、先の文章のつづきにこう書いていますよ。

 統合失調症を理解するためには、正しい知識とともに、人間として共感することが大切に思える。本書を書こうと思った理由の一つには、統合失調症を語る精神医学の用語があまりにも古色蒼然とし非人間的で形骸化し現状と合わなくなっているということがある。統合失調症について、精神医学が好んで使う用語に、「平板化」とか「感情鈍麻」とか「常同的」といったものがある。極めつけは、「欠陥状態」という用語だ。これは人間が人間に用いるべき言葉なのだろうか? これらの用語は、今日も公式に使用されている。門外漢の人が見れば、異様な気持ちに襲われるだろう。ここは、どこなのか。今は、何時代なのかと。


 これらの用語は、患者ではなく、精神医学自体の「感情鈍麻」を表していないかと危惧する人もいるかもしれない。「平板化」し、「常同的」になっているのは、精神医学のほうではないかと。「欠陥状態」を示しているのは、精神医学ではないかと。


 百年も前にドイツの過剰収容の精神病院に閉じ込められた患者たちを観察した結果生み出された用語が今日もなお大手を振って通用しているのである。悲しいことに、こうした用語を学んだ精神科医は、いつのまにか、そうしたフィルターを通して、患者を見るようになる。初々しい心で患者に接していた新人の医師も、五年もすれば、精神医学という偏光眼鏡を埋め込まれてしまうのだ(同書5〜6ページ、ゴシック化は引用者による)。


 ほら、やっぱり精神医学は人間を差別する体系なのではないでしょうか


 100年前のドイツ(1910年くらい)といえば、ナチス政権(1933-45)になる直前のドイツですよね? 医師たちみずから、ナチスに脅迫されたわけでもないのに、病人をせっせと病院に集めてきては殺戮をくり返していた時代の、ほんの2,30年まえにすぎませんね? 精神医学がそうした頃に勃興した学問であることをひとつ念頭に置いてみてくださいよ。どうです? ひょっとして精神医学は人間を差別する体系として生まれ育ってきたのではないかという疑念がおのずと胸のうちに兆してきません?

相模原事件とヘイトクライム (岩波ブックレット)

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ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

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健康帝国ナチス (草思社文庫)

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アスペルガー医師とナチス 発達障害の一つの起源

アスペルガー医師とナチス 発達障害の一つの起源

 


 医学は、健康を正常であること、病気を異常であることとそれぞれ定義づけてやってきましたよね。


 でも、異常などということはこの世にあり得ないとしたら、どうですか。


 あり得ないとしたら、精神医学は誰かを不当にも異常と決めつけ、差別してきた、ということになりませんか。

(了)


次の短篇(短篇1)は10月頃にお送りする予定です。翌週の8月5日(月)21:00には、今回のとは別のシリーズでお目にかかります。


次回短編(短編1)はこちら

 後日URLを入れます。


このシリーズでは、つぎの図書と記事から勉強させてもらうつもりです。

統合失調症 (PHP新書)

統合失調症 (PHP新書)

 
べてるの家の「当事者研究」 (シリーズ ケアをひらく)

べてるの家の「当事者研究」 (シリーズ ケアをひらく)

 
ボクには世界がこう見えていた―統合失調症闘病記 (新潮文庫)

ボクには世界がこう見えていた―統合失調症闘病記 (新潮文庫)

 


このシリーズ(全26短編を予定)の主旨と記事一覧はこちら。

 

医学はこの世の根本原理にもとづかないで、人種差別論理に頼る《2/2》

*医学は喩えると、空気の読めないガサツなおじさん第12回

1/2からのつづき

医学は医学の出来事観を突きつめて物質をつぎのように定義する医学の物質観)。

  • 表現①:物質は身体に特定の出来事を起こす原因である(原因という言葉をもちいての表現)。
  • 表現②:物質は「状況に関係なく身体に特定の出来事を起こすもの」である(原因という言葉をもちいないでの表現)。
  • 表現③:おなじ物質をおなじように摂取・接種すれば、当然、身体におなじ特定の出来事が起こる


 でも、物質は実際、そういうものではないとのことでしたよね。おなじ物質をおなじように摂取・接種しても、ひとによって、もしくはおなじひとでも時と場合によって、身体に起こる出来事はしばしば異なるってことだったじゃないですか、ね?


医学の出来事観と物質観にもとづいて現実を見ると医学に都合が良いように現実を見過ぎることになる数々の可能性を落とすことになる)。


 そのことを、HPVワクチンを例に考察したじゃないですか。無責任にもいきなり夢のワクチン爆誕とかと言い出してしまう......って……あれ?


 いま、みなさんと俺、どこにいます? いったいココどこですかね? 大木目指して歩いてきたじゃないですか、その下でゴロゴロしながらお喋りしましょうって言って?


 ひょっとして、大木、遙か昔にとおり越しちゃってます?


 あっ、ほんとだ、大木、背後のあんなところにあるわ......


 遠くまできちゃったなあ……


 ついおしゃべりが白熱しすぎちゃいましたよ……えっ、もうお家に帰る? 嗚呼もうこんな時間ですしね......みなさんとお喋りするの楽しかったなあ……喋ってたの俺ばっかでしたけど……とはいえ、この世の根本原理だなんだと言って、みなさんがすでによく知っていることをよくもまあこれだけしつッこく、くっちゃべることができたもんだなあ。俺、面の皮、ぶ厚すぎるな恥ずか......あ、もう行きます? 別れはいつも急にやってきますね。ではまた! みなさん、これまで聞いてくれたこと、照れながら感謝します!

(了)

次回は翌週、7月29日(月)21:00にお目にかかります。


今回は《1/2》と《2/2》に分けてお送りしました。

  • ひとつまえの記事(1/2)はこちら。


前回(第11回)の記事はこちら。


このシリーズ(全12回)の記事一覧はこちら。