(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

「テレビでアナウンサーがわたしの噂話をしている」を、「妄想」にすぎないと考えないみなさんは、どのように理解しようとするか(3/10)【統合失調症理解#20】

*短編集「統合失調症と精神医学の差別」の短編NO.63


◆思い出された実例「授業中に先生がわたしのことを話している」

 幻聴がしょっちゅう聞こえるようになって一七年が経った今年(二〇〇四年)の夏で一八年に入る高校生のとき授業中に先生がわたしのことを話しているような気がした授業が終わった後に聞いてみると、「それは空耳だよという返事だった。(略)大学一年のときには、自分が人に良く言われているような幻聴が始まっていた。合唱部にいたのだが、部活から家に帰るときに「おしゃれっぽい、かわいい、きれい……」などと聞こえたような気がして、解放感でいっぱいでフワフワとしていた。(略)


 大学二年生のころになると、幻聴がわたしのことを非難しはじめた。春休みに女の子三人で横浜に旅行したことがある。中華街で歩いていたときのことである。一人が肉まんを食べていて、「もういらない」と言ってそれを道端に置こうとした。そのとき「そんなことすると片付ける人に悪いから、地面に置かずにごみ箱に捨てよう」と言いたかったのだが、そのときなぜか言えなかった。一緒に旅行するくらいの仲ではあったが遠慮して言えなかったのだ。そしてわたしの友人が肉まんを下に置いた瞬間に「デブ、ブス……」という声が聞こえはじめた。わたしは合唱部で副指揮者をしていたので、「デブ、ブス、副指揮者はダメだ、頼りがいがない」とも聞こえた(浦河べてるの家べてるの家の「当事者研究」』医学書院、2005年、pp.64-66、ただしゴシック部分のゴシック化は引用者による)。

 

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その事例を詳しくとりあげた短編はこちら

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 いま挙げた実例の方を以後、Aさんとお呼びすることにします。ここでは、最初に触れられていた授業中の出来事だけに注目してください。


「アナウンサーがわたしの噂話をしている」と考えるようになった女性の場合、テレビでアナウンサーが話しているのを聞いているとき、そのアナウンサーがほんとうは口にしていない「当該女性についての噂話」が、当該女性の耳には入ってきたということでした。いっぽう、いまのAさんの場合は、先生が授業中話しているのを聞いているとき、その先生がほんとうは口にしていない「Aさんに関すること」が、Aさんの耳に入ってきたということでした。


 どちらの場合も、話者の語っていないことが話者から聞こえてきたわけでした。


 では、以前Aさんのこの体験をどう解したのだったか。


 俺たちの推理はこうでした。


 ひょっとするとAさんは、授業中、その先生に、たとえばですが、「最近Aは授業態度が良くないなあ」とか「Aは最近勉強をさぼってる」などと思われているのではないかと気になったのではないか。


 だけど、Aさんからしてみると、その場面で、自分がそんなことを気にしたりするはずはなかった。


 言い換えると、そのときAさんには「自信があったそんなことを気にしたりなんかしていない「自信」が。


 いまこう言いました。ふり返ります。


 先生の授業を聞いている最中、先生に悪く思われているのではないかと気になった。それが「現実」だった。ところが、Aさんにはそのとき、そんなことを気にしたりなんかしていない「自信」があった。そうして「現実」と「自信」が背反するに至った。


 そういった背反が起こったとき、ひとにとることのできる手は、つぎのふたつのいずれかであるように思われます。

  • ①その背反を解消するために、「自信」のほうを、「現実」に合うよう、修正する(現実にもとづく自信修正)。
  • ②その背反を解消するために、「現実のほうを、「自信」に合うよう、修正する(自信にもとづく現実修正)。


 で、Aさんはその局面で、後者②の手「自信にもとづく現実修正」をとった。先生に悪く思われているのではないかと気にしたりなんかしていないという「自信」に合うよう、「現実」を修正し、自分が気にしているのではなく、先生が授業中に「最近Aは勉強をさぼってる」とかと言ったのだと解することになった。


 以上が、Aさんについて俺たちがまえに為した考察でした。みなさんがいま理解しようと努めている、くだんの女性の身に起こったのも、これとよく似たことだったのではないかというのが、みなさんの見立てです。


 みなさんはこう類推します。






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*前回の記事(短編NO.62)はこちら。


*このこのシリーズ(全64短編)の記事一覧はこちら。

 

 

「テレビでアナウンサーがわたしの噂話をしている」を、「妄想」にすぎないと考えないみなさんは、どのように理解しようとするか(2/10)【統合失調症理解#20】

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.63


◆「テレビのニュースでアナウンサーがわたしの噂話をしている」

 その記事のなかに、こう書かれている部分がありました。以後、その部分について考察していきます。

テレビのニュースでアナウンサーが自分のことを話していると思ったり、外出先で周囲から監視されていると思い込んだり、電車で座っている隣の人の貧乏ゆすりが自分への暗号だと受け止めたりした。周囲のすべてが敵に思えて不安に感じる一方、自身の思考と外の出来事がリンクする感覚は「奇跡の連続だった」という。のちにこの症状が、「統合失調症」という病気であると診断された。


(精神)医学に、統合失調症による「妄想」(異常な発想)と判定されたそれら発想を、箇条書きにしてみるとこうなります。

  • ①テレビのニュースでアナウンサーが自分のことを話していると思う
  • ②外出先で周囲に監視されていると思い込む
  • ③電車で隣に座っていた人の貧乏ゆすりを自分への暗号だと受けとる
  • ④周囲のすべてが敵に思える
  • ⑤自身の思考と、外の出来事がリンクする感覚がし、奇跡の連続と思われた


 この①から⑤までの発想を、①から順に見ていきます。


 まず①の「テレビがわたしのことを話している」という発想ですけれども、それは、その記事に転載されている、当該女性の描いたマンガのなかでも触れられています。

 

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そのマンガ部分はこちら。

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 また、そのマンガ本の題名『今日もテレビは私の噂話ばかりだし、空には不気味な赤い星が浮かんでる ~統合失調症の私から世界はこう見えた~』から、その女性が言う「テレビでアナウンサーがわたしのことを話している」は、「テレビでアナウンサーがわたしの噂話をしている」と言い換えられるものと推測できます。

 

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その方の御本はこちらです。

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 では、そう言い換えられるのだとして、その「テレビでアナウンサーがわたしの噂話をしている」をみなさんはどのようにして理解しようとするか?


 俺には、みなさんならこんなふうに頭をひねるのではないかという気がします。


 みなさんはまずこう自分に問いかける。自分なら、テレビでアナウンサーが話しているのを聞いて、何を思い、何を感じることがあるか。


 そうだ、ひょっとすると  みなさんはそう答える  ボクは時々、テレビを見たり、ラジオを聞いたりしている際、劣等感を覚えていることがあるかもしれない。アナウンサーをまえに、自分の至らない点や失敗を痛感させられて、恥ずかしい思いをしたり、腹を立てたりして、脂汗をかいているときがあるかもしれない。


 当該女性も、アナウンサーが話しているのを耳にし、ボクとおなじな感じ方をした、ということはないか。


 しかしみなさんはそこで、こう首をひねらざるを得ません。


 でも、仮にそうだとしても、どうしてそれが、「アナウンサーに自分の噂話をされている」ということになるのか?


 そして、しばらくのあいだ、腕組みをしながら斜め上をにらみつけているうち、みなさんは不意に、この短編集でかつて俺と一緒に考察した、実例をいくつか思い出します。


 そのなかから、ひとつだけあげて見てみましょうか?






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*前回の記事(短編NO.62)はこちら。


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「テレビでアナウンサーがわたしの噂話をしている」を、「妄想」にすぎないと考えないみなさんは、どのように理解しようとするか(1/10)【統合失調症理解#20】

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.63

目次
・「テレビのニュースでアナウンサーがわたしの噂話をしている」
・思い出された実例「授業中に先生がわたしのことを話している」
・自信にもとづく現実修正解釈を別の角度から
・外出先で周囲に監視されていると思い込む
・電車で隣に座っていた人の貧乏ゆすりを自分への暗号だと信じ込む
・周囲のすべてが敵に思える


 先日、あるアプリを覗いていたところ、若いときに統合失調症と診断された、ひとりの女性を紹介する記事に出くわしました。


 その記事には、当該女性がそのころ抱いていた考えや思いが、「統合失調症による妄想」として紹介されていました。

 

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その記事はこちら。

【URL】https://www.oricon.co.jp/special/63296/
【タイトル】22歳で統合失調症患った女性、「関わりたくない」周囲の声…当事者が明かす偏見への想い「皆さんと一緒に生きたい」
【最終アクセス】2023年3月22日21:00

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 その記事を読んでいて、俺、ふとこう思ったわけです。


(精神)医学は、というか、この世のほとんどの人間は、当該女性をはじめとしたひとたちが持つ、ある種の考えや思いを、異常と判定し、「妄想」と呼んできた。そして、それら「妄想」は、脳のなかの何か一つの欠陥、たとえば、セロトニンのような脳内物質の欠乏か何かが生み出した、およそ人間には理解できない支離滅裂な発想であると説明してきた。


 こんなふうに。

かつてクルト・コレは、精神分裂病〔引用者注:当時、統合失調症はそう呼ばれていました〕を「デルフォイの神託」にたとえた。私にとっても、分裂病は人間の知恵をもってしては永久に解くことのできぬ謎であるような気がする。(略)私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか(木村敏『異常の構造』講談社現代新書、1973年、p.182、ただしゴシック化は引用者による)。

 

 専門家であっても、彼らの体験を共有することは、しばしば困難である。ただ「了解不能」で済ませてしまうこともある。いや、「了解不能であることがこの病気の特質だとされてきたのである。何という悲劇だろう(岡田尊司統合失調症、その新たなる真実』PHP新書、2010年、p.30、ただしゴシック化は引用者による)。


 だけど、みなさん(いまこの文章を読んでいるみなさんのこと)もそれと同意見だろうか。


 みなさんもまた、そうしたひとたちの考えや思いを「妄想」と断じ、理解不可能と決めつけるだろうか。


 いや、むしろ、そのひとたちのことを、自分らとおなじ人間と見るのでないか。


 つまり、そのひとたちのそういった考えや思いを、家族や、友人、同僚、先輩、後輩、部下、上司といった身の回りのひとたちを理解しようとするときとおなじように理解しようとするのでないか。


 自分がこれまでしてきた体験と、自分のもてる限りの想像力とを駆使して。


 今回は、冒頭に挙げた記事で紹介されている女性の、統合失調症による「妄想」と決めつけられてきた、考えや思いを、みなさんがどのようにして理解しようとするか、そのさまを追っていきます。






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*前回の記事(短編NO.62)はこちら。


*このこのシリーズ(全64短編)の記事一覧はこちら。

 

 

わたしたちの勘は薄々、ひとを「異常」と判定するのが差別であることに、そう、優生思想であることに、気づいていたが、わたしたちはずっと、例のごとく、見て見ぬふりし続けてきたのではないか、という濃厚な疑い(4/4)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.62


◆みなさんが医学の根本姿勢に違和感を抱き続けてきた形跡

 現にみなさんが、そうしたことどもに勘づいていたらしい形跡を、俺たちは歴史のうちに認めることができます。


 その形跡というのは、優生思想という、多くのひとたちが、くり返し、おぞましい差別を意味するものとして使ってきた言葉、です。


 どういうことか。


 いま一度、不当にも異常、すなわち「ひとでなし/できそこない」と決めつけられてきたのは、誰だったか、思い起こしてみます。


 それは、以前から何度も考察していますように、「標準を下回っているひとたち」であるということでした。


 医学は、世間の、人間をつぎの3つに分ける見方を、無批判に踏襲してきました。

  • ①標準のひとたち(普通のひとたち)
  • ②標準を上回っているひとたち(優れたひとたち)
  • ③標準を下回っているひとたち(劣っているひとたち)


 で、①のグループは正常(標準のひとたちは正常)、②は天才(優れているひとたちは天才)、③は異常(劣っているひとたちは異常)と決めつけてきました(蛇足になりますが、どのグループのひとたちもほんとうは異常ではありません)。ここでは、各集団がそう決めつけられるに至った経緯に触れるのは、省略させてもらいますけれども。

 

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その経緯については、ここで見ています。

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 こうして医学は、異常な人間、すなわち、「ひとでなし/できそこない」なんかこの世に、ただのひとりたりとも存在し得ないにもかかわらず、「劣っているひとたち」は「ひとでなし/できそこない」だとする見方をとってきました。


 健康と病気をそれぞれ、正常であること、および異常であることとするおかしな定義をしでかしてしまったがばっかりに(実際、みなさんがふだんしきりに、やれ健康だ、やれ病気だと言うことで、争点にするのは、そんな「正常か、異常か」ではなく、「苦しくないか、苦しいか」ではないでしょうか)、このように医学は、「劣っているひとたち」は「ひとでなし/できそこない」だとする差別的見方をとることになってきました。


 実にみなさんが優生思想という言葉で、批判したがってきたもの、それは、「劣っているひとたち」は「ひとでなし/できそこない」だと見る、医学のこの根本姿勢ではないでしょうか。


 やはり、みなさんの勘は、鋭くも、ひとを異常と判定するのがまぎれもなく差別であることに、気づいていたのではなかったか。


 ただ、正常、異常という言葉の意味を明らかにしようとするという、ごくごく当たり前のことを、われわれはずっと避けてきたがために、その優生思想という言葉で、具体的には何を批判しようとしているのか、あまりよくハッキリさせることができなかったという事情はあるように思われますが。


 ひとを異常と判定するのが差別であることにもう薄々気づいている。あとは、それについても、いつものように、見て見ぬふりをつづけるかどうかだけなのでしょう。

 

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そうした残虐行為は、医学に内在した根本姿勢の問題であるのではないでしょうか。平たく言えば、健康を正常であること、病気を異常であることと誤った定義づけをしたことによる帰結であるように俺には思われて仕方がありません。


ナチスが医学を「指導した」という考えは、真実とは逆ではないかという予測が、下記の本の読書中、確かめられたような気がしました。

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2023年12月9日に文章を一部修正しました。


*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


*前回の短編(短編NO.61)はこちら。


*このシリーズ(全61短編)の記事一覧はこちら。

 

 

わたしたちの勘は薄々、ひとを「異常」と判定するのが差別であることに、そう、優生思想であることに、気づいていたが、わたしたちはずっと、例のごとく、見て見ぬふりし続けてきたのではないか、という濃厚な疑い(3/4)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.62


◆みなさんが勘づいていたもうひとつのこと

 誰かの実際のありよう。それが、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見えたとき、みなさんがほんとうにしなければいけないのは、何か。


 それは、その合致していないことをもって、そのひとを、問題有りと考えることか?


 いや、ちがう。


 そこで本当にみなさんがしなければならないのは、そのときみなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージを、その誰かの実際のありようとも合致するものとなるよう、修正する、豊かにすることであると、俺たちは前から何度も確認してきました。

 

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ちょうどいま言っていることを、以下の記事で確認しました。

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 そうして、みなさんの頭のなかの「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージを豊饒にしていく。


 それこそが、学び、である、と。


 ひとを異常と判定することは、実に、学びの放棄、に他なりません。そんなことを続けていると、ひとは、どんどん馬鹿になっていくだけです(他人にそんなことを偉そうにも言えた義理では絶対にないのですけれども……)。


 みなさんに、誰かのことが異常と見えたそのとき、本当にみなさんがしなければいけないのは、その誰かのことを異常と決めつけることなんかでは全くなく、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージを、未熟だったと認め、その誰かの実際のありようとも合致するものとなるよう、豊かにすること。みなさんがもっている人間観を、大きくしていく学び、です。


 にもかかわらず、自分が頭のなかにもっている人間観の未熟さを認めることも、そうした学びも放棄して、反対に、すべてをその誰かの問題であることにすり替え、そのひとを「ひとでなし/できそこない」と決めつけて、事を済ませようとする、その怠惰さと卑劣さにも、みなさんの勘は鋭敏に反応し、みなさんに後ろめたさをも感じさせていたのではなかったか、というわけです。






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2023年12月9日に文章を一部修正しました。


*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


*前回の短編(短編NO.61)はこちら。


*このシリーズ(全61短編)の記事一覧はこちら。

 

 

わたしたちの勘は薄々、ひとを「異常」と判定するのが差別であることに、そう、優生思想であることに、気づいていたが、わたしたちはずっと、例のごとく、見て見ぬふりし続けてきたのではないか、という濃厚な疑い(2/4)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.62


◆みなさんの鋭い勘が覚えた違和感

 その違和感とはこれのことです。


 今日に至るまで、われわれは長いあいだ、健康とは正常であること、病気とは異常であることと定義づけ、多くのひとたちを異常と判定してきました。けれども、ひとを異常と判定するそのつど、われわれは、胸のうちで、ひそかに違和感を覚えていたのではないでしょうか。


 誰かのことを異常と断定しようとするまさにその度、われわれはいつも、得体のしれない背徳感に襲われ、重いためらいを覚えてきたのではなかったでしょうか。


 俺たちはうすうす、ひとを異常と判定するのが差別であることに、心の隅のどこかで、遙かまえから気づいていたのではなかったか。


 俺たちの感性は、俺たちにずっと訴え続けてきていたのではなかったか。


 まあ、ひとつ、思い返してみてください。


 みなさんが誰かのことを、異常と判定しようとしていたときのことを。


 くり返し確認していますように、ひとを異常と判定するというのは、或るふたつのものを比べることです。そのひとの実際のありよう。それと、みなさんが、ひとという存在に対してもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージ(みなさんが頭のなかにお持ちの、ひとという存在についての定義、とも言えるでしょうか)。このふたつを比較するということです。


 すなわち、そのひとの実際のありようを、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見、その合致していないことをもって、そのひとを、問題有りと考えるということです。

 

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正常、異常の意味を確認した短編はこちら。

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 復唱します。ひとを異常と判定するとは、

  • ①そのひとの実際のありようを、みなさんが頭のなかにもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見、
  • ②その合致していないことをもって、そのひとを、問題有りと考えること


 みなさんはいま思い返しています。みなさんは、ひとを異常と判定しようとしていたあのとき、それが、そういうことをするものであると深く自覚はしていなかった。実際、いまだかつて、正常、異常という言葉の意味を考察しようとしたひとは、驚くべきことに、この世にただのひとりも存在しません。少なくとも、俺が古今東西の古典をペラペラとめくってきた限りでは、そうした当たり前の究明に尽力しようとしたひとを、ひとりも見つけることはできませんでした。そう、みなさんは、まさにあのとき、異常という言葉の意味には無自覚なままに、誰かのことを異常と決めつけようとしていた。


 が、そのときのことをもっと細部まで思い出してみてくれますか。そのとき、みなさんの勘は、まるでみなさんのかすかな放屁にも、すかさず反応する高性能空気清浄機のように、機敏な反応を示してはいなかったか。


 いまさっきの①と②を再点検します。


 誰かの実際のありようを、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見(①)、その合致していないことをもって、そのひとを問題有りと考える(②)。


 この、「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないことをもって、問題有りと考えるとは、どういうことですか。


 それは、そのひとのことを、ひとではない、つまり、ひとでなし、と見なすということではありませんか。


 言い換えれば、できそこない、と決めつけるということではありませんか!


 ひとを「ひとでなし/できそこない」扱いするという……ああ、なんという残忍な見方だろう!


 誰かを異常と決めつけようとしていたあのとき、みなさんは、異常という言葉の意味をしっかり把握していたのでは、確かになかった。しかし、みなさんの勘は、その残忍さになんとなくではあれ、気づき、みなさんに背徳感やためらいを覚えさせていたのではなかったか、ということです。


 ところが、みなさんが勘づいていたのは、おそらく、そうした残忍さだけではなかった。


 みなさんの研ぎ澄まされた勘は、もっと多くのことに気づいていた。


 こういうことにも……






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2023年12月9日に文章を一部修正しました。


*前回の短編(短編NO.61)はこちら。


*このシリーズ(全61短編)の記事一覧はこちら。

 

 

わたしたちの勘は薄々、ひとを「異常」と判定するのが差別であることに、そう、優生思想であることに、気づいていたが、わたしたちはずっと、例のごとく、見て見ぬふりし続けてきたのではないか、という濃厚な疑い(1/4)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.62

目次
・みなさんの鋭い勘が覚えた違和感
・みなさんが勘づいていたもうひとつのこと
・みなさんが医学の根本姿勢に違和感を抱きつづけてきた確かな形跡


 いま、すさまじい勢いで、続々と、化けの皮が、ありとあらゆるところで剥がれてきていますよね。


 日本のこと、ですよ。


 でもみなさんは、逆に、どこか納得されているかもしれません。


 みなさんがこれまでずっと胸の底のどこかで、覚えてきていた違和感が、いま日本に訪れているこの帰結に、ぴったりきている、と。


 みなさんは独り言つ。

 ああ、そんなことは些事にすぎないと言って、軽視してきたもの。気持ちにひっかからないではないが、でも、そんなことには、意を配るほどの価値がないと、見て見ぬふりをしてきたもの。


 愚かにも、強がって、多勢に付き一笑に付す、そのことが、立派な社会人の証だと思い込んで。


 しかし、そうした些細なものこそが、実は大切だったのだ。


 当時から声をあげていた少数のひとたち。わたしたちが白い目を向けながら、些細なことに大騒ぎをするウルサイ奴らだと嘲笑って、弱者扱いしてきたあのひとたちこそが、ほんとうは正しかったのだ。


 胸の底で覚えていた違和感に、わたしたちはもっと真剣に耳を傾けていなければならなかった。だが、残念なことに、わたしたちの人間性がそれを許さなかった。いつの時代でも、人間社会をより良い方にもっていこうとする当たり前の動きを押しとどめてきた抵抗勢力とは  そうした人間たちの存在を、学生時代、歴史教科書のほうぼうに認め、驚いたものだったが  まさにこんなわたしみたいな者を言うのだ。


 では、次の違和感はどうでしょうか。この違和感についても、いまのように、いつか、過去をふり返りながら、もっと早く真剣に向き合っておくべきだったと、唇を噛んで、手遅れを悔やむことになる日が、やってくるのでしょうか。






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2023年12月5日に文章を一部修正しました。


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