(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

わたしたちの勘は薄々、ひとを「異常」と判定するのが差別であることに、そう、優生思想であることに、気づいていたが、わたしたちはずっと、例のごとく、見て見ぬふりし続けてきたのではないか、という濃厚な疑い(3/4)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.62


◆みなさんが勘づいていたもうひとつのこと

 誰かの実際のありよう。それが、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見えたとき、みなさんがほんとうにしなければいけないのは、何か。


 それは、その合致していないことをもって、そのひとを、問題有りと考えることか?


 いや、ちがう。


 そこで本当にみなさんがしなければならないのは、そのときみなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージを、その誰かの実際のありようとも合致するものとなるよう、修正する、豊かにすることであると、俺たちは前から何度も確認してきました。

 

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ちょうどいま言っていることを、以下の記事で確認しました。

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 そうして、みなさんの頭のなかの「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージを豊饒にしていく。


 それこそが、学び、である、と。


 ひとを異常と判定することは、実に、学びの放棄、に他なりません。そんなことを続けていると、ひとは、どんどん馬鹿になっていくだけです(他人にそんなことを偉そうにも言えた義理では絶対にないのですけれども……)。


 みなさんに、誰かのことが異常と見えたそのとき、本当にみなさんがしなければいけないのは、その誰かのことを異常と決めつけることなんかでは全くなく、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージを、未熟だったと認め、その誰かの実際のありようとも合致するものとなるよう、豊かにすること。みなさんがもっている人間観を、大きくしていく学び、です。


 にもかかわらず、自分が頭のなかにもっている人間観の未熟さを認めることも、そうした学びも放棄して、反対に、すべてをその誰かの問題であることにすり替え、そのひとを「ひとでなし/できそこない」と決めつけて、事を済ませようとする、その怠惰さと卑劣さにも、みなさんの勘は鋭敏に反応し、みなさんに後ろめたさをも感じさせていたのではなかったか、というわけです。






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2023年12月9日に文章を一部修正しました。


*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


*前回の短編(短編NO.61)はこちら。


*このシリーズ(全61短編)の記事一覧はこちら。