*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.60
いま、みなさん、そのひとがそのように泣いているのを「わかる」と言いましたね? 「理解できる」と言ったわけですね?
これはつまり、こういうことではありませんか。そのひとの実際のありようが、こちらの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致しているとき、その合致していることを、ふだんみなさんは、そのひとのそのありようを「理解できる」というふうに表現するんだ、って?
では、今度は反対に、そのひとがそのように泣いているのが、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致しないと仮定してみてくれますか。
どうですか。合致しないと感じているこのとき、みなさんがもし何か喋るとしたら、こんなふうなことを口にするのではありませんか。
「プリンが無くなっているくらいのことでふつう泣く? いやあ、泣くだなんてとても理解できないなあ!」って。
今、みなさん、そのひとがそのように泣いているのを「理解できない」と言いましたね?
これはつまり、こういうことではありませんか。そのひとの実際のありようが、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないとき、その合致していないことをふだんみなさんは、そのひとのそのありようを「理解できない」と表現するんだ、って?
だとすると、正常とは何か、異常とは何かは、こう言い換えられることになります(最初の箇条書きを参照されたし)。
ひとを正常と判定するというのは、
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①そのひとのありようを「理解可能」と見、
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②その理解可能であることをもって、そのひとを問題無しと考えること、
かたや、ひとを異常と判定するというのは、
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①そのひとのありようを「理解不可能」と見、
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②その理解不可能であることをもって、そのひとを、問題有りと考えること、
である、って。
要するに、ひとを正常と判定するというのは、そのひとのことを「理解可能」と認定することであるいっぽう、ひとを異常と判定するというのは、そのひとのことを「理解不可能」と認定することなんだ、って?
2023年11月23日に文章を一部修正しました(内容は変わっていません)。
*今回の最初の記事(1/4)はこちら。
*前回の短編(短編NO.59)はこちら。
*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。