(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(7/7)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.62


◆⑤医学とは「優生思想」の実践である

 医学のこの多様性の否定は、詳しく言うとこういうことでした。最後にもう一度、ふり返ってみます。


 医学がおのれの使命とする「異常なひとを無くす」とは、

  • 標準を下回っているひとたち」を
  • 間違った理由にもとづいて
  • 標準以上になるか、もしくは存在しなくなるか、しなくてはならない者であるということにし、

  • そのひとたちを、そのとおり、標準以上、あるいは居なくなるようにすることである、


 って。


 どうですか。この多様性の否定は、優生思想の実践、と言い換えられるかもしれないと、いま、思いませんでしたか(意味がちょっとちがうと言うひともいるかもしれませんが)?


 要するに、優生思想とは、「標準を下回っているひとたち」を誤った理由にもとづいて、標準以上になるか、もしくは存在しなくなるか、しなくてはいけない者であるということにする、多様性の否定(差別)のことと言えるのではないか、ということです。


 俺はしばしば考えます。人間は誰しも、多かれ少なかれ、「標準を下回っている」と映るひとたちのことを、見下すのを好むのかもしれない、って(たとえば、スポーツ選手への礼賛や批判を思い浮かべてみてくださいよ)。特に、エリートと言われる人間は、公然とそうしたひとたちを見下すことがありますね。時に、「この世に生きている価値はない」と言わんばかりに罵ったりして、ね? すぐに「バカじゃねえの」とか言ったりして、ね? そんなひと、よくいません?


 そしてそのように、「標準を下回っている」と映るひとたちに、標準以上になること、もしくは居なくなることを、熱い意欲をたぎらせ、常日頃から強制したがっている人間は、そうした強制を正当化するための「もっともらしい根拠、科学のなかに、言い換えれば、自然法則のなかに見出そうと努めてきたのではなかったでしょうか。


 で、そうした根拠になる自然法則として、ありもしない自然法則がこれまでいくつか捏造されてきたのではなかったでしょうか。


 たとえば、そうしたものとして、進化論の「適者こそが生き残る(この世は利益という名のイス取りゲームで、それを取り損ねたものが淘汰される)」とする完全に誤った自然淘汰観や、今回見てきた「健康を正常であること、病気を異常であること」とする誤った健康病気の定義などが挙げられるのではないでしょうか。






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医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(6/7)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.62


◆④ほんとうの多様性の肯定とは

 異常な人間などこの世にただのひとりたりとも存在し得ない。したがって、誰しも、標準以上(医学が勝手に狭めて定めた正常領域)になることを、他人に強制されるいわれは基本的には無い、ということになります(もちろん、いついかなる時もそうした強制をされるいわれはない、と言っているのではありませんよ)。


 仮にみなさんが、「標準を下回っている」のだとしても、標準以上になる必要を、基本的にみなさん自身が覚えないのであれば、よほどのことがない限り、みなさんは標準以上になろうとしなくても構わない、ということです。


「標準を下回っているひとたち」が、標準以上になろうとするかどうかは、基本的には本人が決めることであって、本人がそうなりたいと思ったのなら、そう努めればいいし、周りもその手助けをすればいいが、そうでなければ、そう努める必要はない、ということです。


 みなさんはどう思いますか。ひとりの人間のうちには、優れている劣っているを問わず、いろんな能力がありますね。話す、走る、泳ぐ、書く、読む、歌う、考える、記憶する、ひとを思いやる、笑わす等の能力もそうだし、身体の各部分、たとえば心臓、肝臓、目玉、鼻、脳みそ、それぞれの能力もそうですね。みなさんは、どのひとも、そのひとのもてる能力のすべてをみな、標準以上にしなくてはならないと思いますか? 医学が勝手に定めたその標準以上に?


 でもまた、いったいなぜ?


 実際のところ、いろんな程度の能力のひとたちの存在を、できる限り広く、受け入れてこそはじめて(非常にむつかしいことであると思いますが)、多様性を肯定している、ということになるのではありませんか。そしてそのときはじめて、「みんな違ってみんなイイ」という大それた言葉を口に出している自分に、あまり後ろめたさを覚えないで済むようになるのではありませんか。


 いま、医学がおのれの使命としてきたのは、多様性を否定するという差別をすることである、と言いました。でも、医学を全否定しようとしているのではありませんよ。もちろんです。そんなことをするつもりは毛頭ないし、そもそも全否定だなんてそんなことは、この世の何についてだって、まずできませんね?


 現実はそれが何であれ、そんな全否定ができるほど単純ではありませんね?


 ましてや、われわれ人類(!)に多大な貢献をしてきた医学にたいし、全否定なんてできるはずがありません。どれだけの人間が医学から恩恵をこうむってきたことか


 だけど、全否定できないというそのことをもって、批判する必要がないだとか、良いところだけを見て悪いところには目を瞑れだとかと言っていると、いまの日本のような手の施しようのない状態に陥ってしまうのではないでしょうか。

 

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みなさんの念頭にはさっきから"発達障害"のことが浮かび上がっているのではないかと推測しています。

 

"発達障害"を念頭に多様性の否定と肯定について以前おなじようなことを下で書きました。

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 ともあれ、もうそろそろ、医学のこの多様性の否定という差別行為を、簡単に、数語で言い換えてから、この文章を終わりにすることとしましょうか。






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医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(5/7)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.62


◆③医学とは「多様性の否定」である

 さあ、ここまで、どうですか? ひょっとすると、ダラダラと話しすぎて、論点がぼやけてしまっているかもしれませんね? この文章の主題はこういうものでした。先に進むまえに、頭からざっとふり返ってみますね。


 医学は「みんな違ってみんなイイ」といった、多様性を肯定する言葉を口にするが、しているのは実はその正反対ということはないか、という根性のヒン曲がった俺の疑惑を検証するのがこの文章の主題でした。そのためにまずここまで、医学がおのれの使命とするところを見てきました。それを箇条書きで簡単にまとめるとこうなります。

  1. みなさんが医学にその使命とするよう求めているのは、ひとが「苦しまないで居てられるようになる」のを手助けすることである。
  2. しかし医学はおのれの使命を「異常なひとを無くす」こととしてきた。
  3. が、この世に異常なひとなどただのひとりたりとも存在し得ない。
  4. そこで医学は、一部のひとたちを、ほんとうは正常であるにもかかわらず、不当にも異常であると決めつけて差別し、「無くす」ことにしてきた。
  5. では、そのように差別されてきたのは誰だったかというとそれは、「標準を下回っているひとたち」だった。


 そして以上を圧縮すると、こうなります。


 医学がおのれの使命としてきたのは、「異常なひとを無くす」ことである。すなわち、「標準を下回っているひとたち」を、異常だからという間違った理由で、標準以上になるか、もしくは存在しなくなるか、しなくてはならない者であるということにし、そのひとたちを、そのとおり、標準以上、あるいは居なくなるようにすることである、って。


 けど、それはいったい何を意味しているでしょう?


 それは、「標準を下回っているひとたち」に、標準以上になることを医学が強制している、ということを意味するのではありませんか。


 つまり、多様性を否定している、ということを意味するのではありませんか。


 しかも、その強制は不当誤り)なんだ、って。


 だって、そうした標準以上になることへの強制を正しいと医学が信じ切きれているのはひとえに、この世に異常なひとが存在すると盲信できていればこそですね?


 すなわち、「標準を下回っているひとたち」のことを、異常な人間であると盲信できていればこそ、そのひとたちについて、標準以上(医学が考える正常領域)に、絶対にならなければいけないと頭ごなしに決めつけられるわけですね。


 だけど、異常な人間などこの世にただのひとりたりとも存在し得ないということでした。


「標準を下回っているひとたち」は、異常ではありません。そのひとたちに、標準以上になることを強制するための根拠である、「異常である」という理由は完全に誤っています。よって、その強制(多様性の否定)には根拠が足りない、ということになりますね。






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医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(4/7)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.62


◆②医学に不当にも異常と決めつけられ、差別されてきたのは誰か

 それは、以前から何度も確認していますように、いわゆる「標準を下回っているひとたち」です。


 医学は社会通念に無批判に基づき、世間がやるのとおなじように、人間を、標準的なひとたち、標準を上回っているひとたち(優れているひとたち)、標準を下回っているひとたち(劣っているひとたち)、の3グループに分けてきました(人間集団のどこを「標準」とするかに、たった一つの見方しかない、ということは決してないことを、是非とも常に頭の隅に置いておきたいところです)。で、その「標準を下回っているひとたち」を、不当にも異常と決めつけ、差別してきました。


 ここでは、そのひとたちがそうして差別されることになった顛末についてはもう詳しく見ませんよ。先を急ぎます。

 

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その顛末はここで見ました。

①簡単な見方

②すこし込み入った見方

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 ほんとうは他のみんなとおなじく正常であるにもかかわらず、医学に不当にも異常と決めつけられ差別されるのは、「標準を下回っているひとたち」です。よって、医学が勝手におのれの使命としてきた「異常なひとを無くす」を果たすための先述の4手はこう言い換えられることになります。

  1. 標準を下回っているひとを、標準以上にする(治療)。
  2. ひとが、標準を下回らないようにする(予防)。
  3. 標準を下回ったひとが生まれてこないようにする(優生保護)。
  4. 標準を下回っているひとたちを殺す。





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医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(3/7)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.62


 そもそも医学が、やれ健康だ、やれ病気だとさかんに言うことによって争点にしてきたのは、「苦しくないか、苦しいか」ではありませんでした。つまり、治る、を医学は「苦しまないで居てられるようになること」とは見てきませんでした。


 医学が、やれ健康だ、やれ病気だとさかんに言うことによって争点にしてきたのは、「正常か、異常か」でした。実に医学は、健康を正常であること、病気を異常であることと勝手に定義づけてやってきました。医学は、病気だったのが健康になる、すなわち治るということを、勝手に、異常だったのが正常になること、と考えてやってきたわけです。

 

 


 医学が実際におのれの使命としてきたのは、異常なひとを無くすことだったわけですよ。ひとが「苦しまないで居てられるようになる」のを手助けすること、ではなくて、ね?


 そしてその「異常なひとを無くす」という使命を果たすために医学はこれまで、つぎの4つの手をとってきました。

  1. 異常なひとを正常にする(医学が言うところの治療)。
  2. 異常にならないようにする(医学が言うところの予防)。
  3. 異常なひとが生まれてこないようにする(優生保護)。
  4. 異常なひとたちを殺す(特に、医学がもっとも発達した時期であると言われる1930年代に、当時の医学界の先頭を走っていたドイツ医学が、特段ナチスに強いられたのでもないのにやったのが有名)。

 

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最近、こんな記事が出ましたね(2023年11月23日にこの記事紹介を追加しました)。


また、番号4の参考図書としてはこれ等が。

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 さて、いま最初に、医学がおのれの使命とするところを確認しました。それは、みなさんが医学に使命とするよう求めるところ(ひとが「苦しまないで居てられるようになる」のを手助けすること)とは異なっていましたね。「異常なひとを無くす」こと、でしたね。だけど、以前に確認しましたとおり、異常なひとはこの世にただのひとりたりとも存在し得ません。言うなればひとはみな正常です(以前に数回やった、そのことの証明は、ここでは省かせてもらいます)。

 

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その証明はこちらでしました。

①簡単な仕方での証明

②すこし込み入った仕方での証明

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 となると、どうなるか。


「異常なひとを無くす」ことをおのれの使命とする医学は、一部のひとたちを不当にも異常と決めつけ無くそうとしてきたということになりますね。そのひとたちも、ほんとうなら他のみんなとおなじく正常と判定されてしかるべきであるにもかかわらず、ね?


 では、そのように不当にも異常と決めつけられ、無くそうとされてきたのは誰だったか。






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医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(2/7)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.62


◆①医学を医学たらしめるものは何か

 まず、医学を医学たらしめるものについて考えるところから始めますね。


 医学をまさに医学たらしめるものは何か。


 つまり、医学がおのれの使命とすべきところは何だと、みなさん思いますか?


 そう、ひとを治すこと、ですね?


 そしてその、治す、とは、病気であったのを健康にする、ということですね。


 では、その健康や病気というのがそれぞれ何を意味するか確認することにしましょうか。そうすれば、治る、が何を意味しているか、もっとはっきりしてきますよね。


 ふだんのみなさんにとって、健康という言葉は何を意味するか。


 健康とは「健やかに康らかに」と書きますね。ふだんのみなさんにとって、健康という言葉は「苦しんでいない」ということを意味するものではありませんか。


 いっぽう、病気とは「気を病む」と書きますね。「気を病む」とは苦しむということですね? ふだんのみなさんにとって、病気という言葉は、「苦しんでいる」ということと、その苦しみが「手に負えない」ということを意味するものではありませんか。


 いま、こういったことを確認しました。みなさんがふだん、やれ健康だ、やれ病気だとしきりに言うことによって争点にするのは、「苦しくないか、苦しいか」である、って。


 したがって、みなさんにとって、病気だったのが健康になるというのは、すなわち治るというのは、「苦しまないで居てられるようになること」を意味することになりますよね。


 だとすると、みなさんが、医学におのれの使命とするよう求めるのは何か。


 一言でいえば、それは、ひとが苦しまないで居てられるようになるのを手助けすること、ではありませんか。

 

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その手助けを、もう少し具体的に考察した短編はこちら。


もっと突っ込んで考察した回はこちら。


そもそも「苦しい」とはどういうことか、を突っ込んで,しかし簡単に説明した回はこちら。

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 しかし、医学が実際におのれの使命としてきたのは、そういうことではありませんでした。医学がおのれの使命としてきたのはもっと別のことでした。






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*前回の短編(短編NO.60)はこちら。


*このシリーズ(全62短編)の記事一覧はこちら。

 

 

医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(1/7)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.62

目次
・科学が多様性を肯定する言葉を口にしているときにみなさんが感じること
・①医学を医学たらしめるものは何か
・②医学に不当にも異常と決めつけられ、差別されてきたのは誰か
・③医学とは「多様性の否定」である
・④ほんとうの多様性の肯定とは
・⑤医学とは「優生思想」の実践である


◆科学が多様性を肯定する言葉を口にしているときにみなさんが感じること

「みんな違ってみんなイイ」


 そういった趣旨の言葉が科学の口から聞こえてくるたび、申し訳ないですけど、俺の胸のなかは疑いで一杯になります。


 科学が、多様性を大事にしていると主張しているのに出くわすたび、俺の身体は疑惑で硬直します。


 口先ではそう言っているけど、しているのは実はそれとは正反対、ということはないか、って。


 疑り深すぎでしょうか。


 いや、単に俺の性格が腐っているだけかもしれませんね。


 だけど、性格が悪ければこそ気づくということがないともまた限りません。


 イジワル・オジサンの直感もあながち、当たらないとは限りませんよ?


 ときどきは、ね?


 どうですか、みなさん、いまからちょっと、確かめてみませんか? 


 ほんとうに医学の口から聞こえてくる、多様性を肯定する言葉は、信じるに足るものなのか


 現にしていることはそれとは正反対ということはないか。


 さっそく考察をはじめます。






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*前回の短編(短編NO.60)はこちら。


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