*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.61
◆⑤医学とは「優生思想」の実践である
医学のこの多様性の否定は、詳しく言うとこういうことでした。最後にもう一度、ふり返ってみます。
医学がおのれの使命とする「異常なひとを無くす」とは、
- 「標準を下回っているひとたち」を、
- 間違った理由にもとづいて、
-
標準以上になるか、もしくは存在しなくなるか、しなくてはならない者であるということにし、
-
そのひとたちを、そのとおり、標準以上、あるいは居なくなるようにすることである、
って。
どうですか。この多様性の否定は、優生思想の実践、と言い換えられるかもしれないと、いま、思いませんでしたか(意味がちょっとちがうと言うひともいるかもしれませんが)?
要するに、優生思想とは、「標準を下回っているひとたち」を、誤った理由にもとづいて、標準以上になるか、もしくは存在しなくなるか、しなくてはいけない者であるということにする、多様性の否定(差別)のことと言えるのではないか、ということです。
俺はしばしば考えます。人間は誰しも、多かれ少なかれ、「標準を下回っている」と映るひとたちのことを、見下すのを好むのかもしれない、って(たとえば、スポーツ選手への礼賛や批判を思い浮かべてみてくださいよ)。特に、エリートと言われる人間は、公然とそうしたひとたちを見下すことがありますね。時に、「この世に生きている価値はない」と言わんばかりに罵ったりして、ね? すぐに「バカじゃねえの」とか言ったりして、ね? そんなひと、よくいません?
そしてそのように、「標準を下回っている」と映るひとたちに、標準以上になること、もしくは居なくなることを、熱い意欲をたぎらせ、常日頃から強制したがっている人間は、そうした強制を正当化するための「もっともらしい根拠」を、科学のなかに、言い換えれば、自然法則のなかに見出そうと努めてきたのではなかったでしょうか。
で、そうした根拠になる自然法則として、ありもしない自然法則がこれまでいくつか捏造されてきたのではなかったでしょうか。
たとえば、そうしたものとして、進化論の「適者こそが生き残る(この世は利益という名のイス取りゲームで、それを取り損ねたものが淘汰される)」とする完全に誤った自然淘汰観や、今回見てきた「健康を正常であること、病気を異常であること」とする誤った健康病気の定義などが挙げられるのではないでしょうか。
*今回の最初の記事(1/7)はこちら。
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