*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.61
◆④ほんとうの多様性の肯定とは
異常な人間などこの世にただのひとりたりとも存在し得ない。したがって、誰しも、標準以上(医学が勝手に狭めて定めた正常領域)になることを、他人に強制されるいわれは基本的には無い、ということになります(もちろん、いついかなる時もそうした強制をされるいわれはない、と言っているのではありませんよ)。
仮にみなさんが、「標準を下回っている」のだとしても、標準以上になる必要を、基本的にみなさん自身が覚えないのであれば、よほどのことがない限り、みなさんは標準以上になろうとしなくても構わない、ということです。
「標準を下回っているひとたち」が、標準以上になろうとするかどうかは、基本的には本人が決めることであって、本人がそうなりたいと思ったのなら、そう努めればいいし、周りもその手助けをすればいいが、そうでなければ、そう努める必要はない、ということです。
みなさんはどう思いますか。ひとりの人間のうちには、優れている劣っているを問わず、いろんな能力がありますね。話す、走る、泳ぐ、書く、読む、歌う、考える、記憶する、ひとを思いやる、笑わす等の能力もそうだし、身体の各部分、たとえば心臓、肝臓、目玉、鼻、脳みそ、それぞれの能力もそうですね。みなさんは、どのひとも、そのひとのもてる能力のすべてをみな、標準以上にしなくてはならないと思いますか? 医学が勝手に定めたその標準以上に?
でもまた、いったいなぜ?
実際のところ、いろんな程度の能力のひとたちの存在を、できる限り広く、受け入れてこそはじめて(非常にむつかしいことであると思いますが)、多様性を肯定している、ということになるのではありませんか。そしてそのときはじめて、「みんな違ってみんなイイ」という大それた言葉を口に出している自分に、あまり後ろめたさを覚えないで済むようになるのではありませんか。
いま、医学がおのれの使命としてきたのは、多様性を否定するという差別をすることである、と言いました。でも、医学を全否定しようとしているのではありませんよ。もちろんです。そんなことをするつもりは毛頭ないし、そもそも全否定だなんてそんなことは、この世の何についてだって、まずできませんね?
現実はそれが何であれ、そんな全否定ができるほど単純ではありませんね?
ましてや、われわれ人類(!)に多大な貢献をしてきた医学にたいし、全否定なんてできるはずがありません。どれだけの人間が医学から恩恵をこうむってきたことか。
だけど、全否定できないというそのことをもって、批判する必要がないだとか、良いところだけを見て悪いところには目を瞑れだとかと言っていると、いまの日本のような手の施しようのない状態に陥ってしまうのではないでしょうか。
<><><><><>
みなさんの念頭にはさっきから"発達障害"のことが浮かび上がっているのではないかと推測しています。
"発達障害"を念頭に多様性の否定と肯定について以前おなじようなことを下で書きました。
<><><><><>
ともあれ、もうそろそろ、医学のこの多様性の否定という差別行為を、簡単に、数語で言い換えてから、この文章を終わりにすることとしましょうか。
*今回の最初の記事(1/7)はこちら。
*前回の短編(短編NO.60)はこちら。
*このシリーズ(全61短編)の記事一覧はこちら。