*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.64
◆周囲のすべてが敵に思える
当該女性はこの段階に行き着くまでのあいだに、テレビをつけては、「アナウンサーがわたしの噂話をしている」(発想①)と受けとり、外に出ては「周囲に監視されている」(発想②)ととるようになっています。もうそこまでくると逆に、周囲のすべてが敵に見えていないほうがおかしいだろう。
そう考えるところから、みなさんは発想④の点検をはじめます。
しかし、そういう事情は抜きにしても、「周囲のすべてが敵に思える」ことは誰にでもあることではないか、とみなさん。つい先だってまで話題になっていたある芸能事務所に所属していた(している?)ところの、あるアイドル(?)が、昔ラジオでこう言っていたのを思い出しながら。
駆けだしのころ、最寄り駅かどこかの駐輪場にとめておいた自転車がいくら探しても見つからないということがあった。しばらくしてその自転車が盗まれたとわかったとき、周囲を行き交うひとたちがみんな敵に見えた。
そこで、みなさんはこう考える。
「ひとがみな敵に見える」ということは、多くのひとが少なからず、過去に体験したことなのではなかろうか。ただ、「みな敵だ」というそうした考えに捉えられたとき、ひとは大抵の場合、十分な心の余裕があって、その考えをほんとうに正しいのかと疑うことができたのではないだろうか。
- A.みな敵だという考えに捉えられる
- B.その考えを疑う
いっぽう、当該女性は、「みな敵」だという考えに捉えられたとき、その考えを疑うことがなかったのかもしれない。当該女性には、そう疑うだけの、心の余裕がなかったという可能性は十分にある。テレビをつけては、「アナウンサーがわたしの噂話をしている」(①)と受けとり、外に出ては「周囲に監視されている」(②)ととる、そんな圧倒的な状況下では、「みな敵だ」という考えに捉えられたとき、その考えを疑うだけの心の余裕を果して、ひとはもてるものだろうか?
最後に、ここからみなさんは発想⑤について考察します。
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