*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.64
ここまで、統合失調症による「妄想」として扱われてきた、当該女性の発想①から④を見てきて、みなさんはそれらのもとに、「自分の考えをあくまでも疑うことがない」という当該女性の姿勢を認めてきました。その姿勢を最後に別の言い方で、みなさんはこう表現してみようとします。
自分の「考え」(予想・予測)が、「現実」と背反している場合であっても、もしくは「現実」と背反している可能性が非常に高いと考えられる場合であっても、その「考え」をあくまでも疑うことなく、「現実」はその「考え」どおりだとする姿勢だ、と。
ではそうした姿勢を、自分の「考え」が「現実」と背反するつど、続けていくとどうなるか。
「現実」が、ことごとく自分の「考え」と「リンクする感覚」がして、奇跡の連続、
と感じることになるのではないか。
つまり、先に挙げた当該女性の発想⑤が出てくるのでなはいか、ということです。
以上、ひととおり、この文章冒頭で挙げた、当該女性の、「妄想」と決めつけられてきた発想の数々を、みなさんがどのようにして理解しようとするか、見終わりました。
果して、みなさんは当該女性のことを理解できたと言えるでしょうか。それとも、当該女性には申し訳ないことに、ただ誤解しただけで終わったと結論づけるべきでしょうか。
正直、俺にはわかりません。
ひょっとすると、あまりにも少ない情報から、横着にも、当該女性のことを理解しようとして、その結果、間違ったふうに当該女性のことを決めつけてしまったということもあるのかもしれません。
でも、ただひとつ確実に言えそうなのは、途中でも一度書きましたように、(精神)医学よりも、みなさんのほうが断然、当該女性の真相に近づけているに違いないという強烈な感触が覚えられる、ということです。
もちろん、(精神)医学がやってきたように、そしてこれからもやっていくように、誰か、理解しにくいひとがいれば、そのひとのことを「異常」扱いして、誰にも理解不可能であるという烙印を押し、そのひとのそういう状態を、そのひとの身体のなかのどこか一点のせい(この場合は脳のなかの一点のせい)にすれば、事はラクチン・ラクチンです。
当該女性の例でいえば、当該女性の発想①から⑤までを、眉をひそめながら、「異常」と決めつけて、理解不可能なもの(妄想)であるということにし、脳のなかの、セロトニンの欠乏(?)か何かのせいで、そんな誰にも理解できない壊れた考えや思いが頭のなかに発生してきたのだということにする、ふざけた説明をしていれば、多くのひとたちは「わかりやすいわかりやすい便利だ便利だ」と手を叩いてありがたがることでしょう。で、それを、人類の英知が勝ち取った栄光と称えることでしょう。そういう見方をひとにすることをヒューマニスティックと誤解しつづけることでしょう。
いまみなさんがやってみせたような、経験と、想像力と、手間が要る、泥臭い類推に背を向けて、ね?
しかしそれでもみなさんは、そんな(精神)医学の人間の扱い方には見向きもしない。
なぜか?
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