*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.48
さて、「左手の物」は、「見えるありよう」と「見えないありよう」とから成るといま表現しました。でも、そのように「見えるありよう」と「見えないありよう」から成るのは、「左手の物」に限られるでしょうか。いや、限られませんね? 「身体の物」全体が、そのように「見えるありよう」と「見えないありよう」から成っていますよね?
「左手の物」が、目を完全につぶった俺のまえで、その姿まるまる全部を「見えないありよう」とするように、「身体の物」が、隅から隅までその全て丸々ひとつを、「見えないありよう」とするときも、ありますね。俺が遠くを見ているときなんかは、そうですね。もしくは目をつぶっているときがそうですね。俺の「身体の物」はそのとき俺にたいして、隅から隅まで全てを「見えないありよう」としますよね。
けど、イスに座って考え事をしているいまなんかは、俺の「身体の物」は、俺にたいして、胸から下の表面だけは「見えるありよう」をとりますね?
そういった意味で、「身体の物」は「見えるありよう」と「見えないありよう」とから成っていると言えますね?
以上、今回は身体が機械ではないことを確認しました。こういうことでした。身体とは、ほぼおなじ場所を占めている、「身体の感覚」と「身体の物」とを合わせたもののことであって、ただの「物」でしかない機械とは違い、そこには「感覚」というものが含まれる、って。
ちなみに「身体の物」については、その一部を「見えるありよう」、それ以外の全部分を「見えないありよう」としているときもあれば、その姿丸々ひとつをみな「見えないありよう」としているときもある、とついでに確認しました。
次回は、このように機械ではない身体を、医学がなぜ機械と見なすのか確認します。
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