*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第2回
事のはじめに「絵の存在否定」、「存在の客観化」というふたつの不適切な操作を立てつづけに為す西洋学問の手にかかると、左手はこう解されるとのことでしたね?
- a.左手は「左手機械」である。
- b.「左手の感覚」は、心のなかにある、「左手機械(心の外に実在)の様子を知らせる情報」である。
こういった見方を西洋学問では身体全体にし、こう解します。
- α.身体は、元素がよせ集まったにすぎないものである(身体は「身体機械」である)。
- β.「身体の感覚」は、心のなかにある、「身体機械(心の外に実在)の様子を知らせる情報」である。
でも、身体とはみなさんにとって、おなじ場所を占めている「身体の物」と「身体の感覚」とを合わせたもののことだったじゃないですか。「身体の感覚」は身体のうちに含まれました、ね? ほら、身体は機械なんかじゃありません、ね(αへの批判)? 「身体の感覚」は、心のなかにある像なんかじゃないですよ、ね(βへの批判)? 左手を眼前にかかげてくれているみなさんの「左手の感覚」は、みなさんの眼前数十センチメートルのところにありますし(左手を降ろしてくださいって言うの忘れてました……)、みなさんの「足先の感覚」も、床のちょうど上にありますし、ね?
以上、西洋学問ではなぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか、再確認しました。西洋学問では事のはじめに「絵の存在否定」、「存在の客観化」とそれぞれ俺がよぶ、ふたつの不適切な操作*1を立てつづけ為し、身体を機械と見なすに至る(上記α)とのことでしたね。そして「身体の感覚」を、心のなかにある、「身体機械の様子を知らせる情報」であるとあやまって定義づける(上記β)とのことでしたよね。
そのように身体を機械と見なせば、快さや苦しさが何であるかは当然理解できなくなるって、最初に言ったじゃないですか。たしかこういうふうに言いましたよ。機械は快さや苦しさを感じたりはしない。つまり、機械には快いか苦しいかといった区分は見当たらない。したがって、身体を機械と見なせば、快いか苦しいかといった区分を、見落とすることになるか、もしくは、機械に認められる何らかの区分として考えなくちゃならなくて行き詰まることになるか、に決まってる、って。
次回、その行き詰まりぶりを見ていきます。
後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。
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今回の最初の記事(1/5)はこちら。
前回(第1回)の記事はこちら。
このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。
*1:「絵の存在否定」について書いた記事一覧です。
「存在の客観化」について書いた記事一覧です。