*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第3回
快さについてもこれとおなじことになります、よね? 病院で何も異常は見つからないのに、体調が芳しくないってこと、あるじゃないですか。説1にしたがうと、「身体機械」が正常でも、快さを感じているとは限らないということになります、よね?
そこから、身体機械が正常であるかどうかを知るのに、快さの感じは当てにならないということになって、結果、身体機械が正常であるかどうかは、身体機械だけを見て決めるべきだってことになりますよ、ね?
このように、快さや苦しさを「身体機械が正常であるか、もしくは異常であるかを知らせる情報」と定義づけると、快いか苦しいかといった区分と、「身体機械」が正常であるか異常であるかといった区分はまったく別のふたつだってことになり、快いか苦しいかといった前者の区分は無視されることになるってことだったじゃないですか、ね?
実際、快いか苦しいかといった区分って無視されてません?
ちょっと考えてみてくださいよ。健康とか病気とかっていったい何ですかね?
みなさん、健康であると言うとき、そのひと言で、苦しまずに居られていることを表現しようとするんじゃないですか、ね? いっぽう病気であると言うときは、そのひと言で、苦しんでいることを言い表そうとするんじゃないですか、ね?
健康であるとか病気であるとか言うことでみなさんが争点にするのは、苦しまずに居られているか、苦しんでいるか(快いか、苦しいか)じゃないですか、ね?
そんなみなさんにとって、治るっていうのは、当然、苦しまずに居られるようになること、なんじゃないですか、ね?
みなさんは医学に、苦しまずに居られているか、苦しんでいるか(快いか、苦しいか)といった区分を気にしてほしがっているんじゃないのかなあ。
けど、西洋学問では、異常なひとも、異常な数値も、異常なかたちも、ほんとうはこの世に存在しないっていうのに、健康とは正常であること、病気とは異常であること、と定義づけてきたじゃないですか。医学が、健康であるとか病気であるとかと言ってしきりに気にするのは、正常であるか、異常であるか、ですよ、ね? そんな医学にとって、治療とはあくまで正常になることを目的とするものであって、その目的実現のためには、治療を受けるとこうむることになる苦しさはどんなにつらいものであっても我慢すべきだってことなんじゃないですか、ね?
さあ、今度は、訳のわからない説2のほうを見ていきますよ。
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