*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.45
◆医学による、健康、病気の独自な定義
そもそも(精神)医学は、健康、病気をみなさんとはまったく別様に考えます。
ふだんみなさんは、やれ健康だ、やれ病気だとしきりに言うことで、「苦しくないか(快いか)、苦しいか」を争点にするということでしたよね。つまり、治るとは、みなさんにとって、「苦しまないで居てられるようになること」でしたね。
ところが、ひとの身体を機械と見なす医学には、快さとか苦しさというのは、訳のわからないものにすぎません。だって、機械は快さや苦しさを感じないではありませんか。したがって、快さや苦しさを、機械に見られる何らかの現象として説明しようとすると、かならず行き詰まって、何が何やらわからなくなります。
そんな何が何やらわからない、快さ・苦しさなるものにもとづいて、健康や病気という大事なものを医学が定義づけようとすると、みなさん思います?
そんな大それたことをしようとするとは思えませんね?
実際、医学は、そんな大それたことはしてきませんでした。その代わりに、みなさんとは別様に、健康を正常であること、病気を異常であることとそれぞれ独自に定義づけてきました。
要するに、やれ健康だ、やれ病気だとしきりに言うことで、みなさんが争点にしてきたのは、「苦しくないか、苦しいか」であるのに、みなさんとおなじようにやれ健康だ、やれ病気だと盛んに言っていながらも、そう言うことで医学が争点にしてきたのは、「正常か、異常か」だったということですよ。
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ちなみに、ひとを異常と見るのは誤りであるということでしたよね。
(注)上記記事よりもっと簡単にそのあやまりを確認する回はこちら。
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病院にやってきたひとが目のまえで、「ブス、ブスという声が聞こえてくる」と、必死に「苦しさ」を訴えていても、医学はそれを「苦しさ」を訴えているとはとらず、精神の「異常」を訴えていると見てきました。
「目のまえのこのひとは、意味不明なことを言っている。精神がおかしくなっているな。異常になっているんだ。精神を正常にしてやらなくてはならない」。そう考えてきました。
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その実例を下の記事で目の当たりにしました。
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医学にとって、治るとは「苦しまないで居てられるようになること」ではなく、「異常であるのが正常になること」であるというわけです。
*前回の短編(短編NO.44)はこちら。
*このシリーズ(全48短編を予定)の記事一覧はこちら。