(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

なぜ医学は、患者が何を「訴え」、何を「要望している」のかイマイチよく理解できないのか。また患者がこうむっている「たいしたことのある」副作用を、なぜ「たいしたことのない」ものと勝手に侮ってしまうのか(2/3)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.1】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.47


◆医学による争点のすり替え

 先ほど、いきなりこう言いました。ふだんみなさんは、やれ健康だ、やれ病気だとしきりに言うことで、「苦しくないか(快い)、苦しいか」を争点にする、って。


 だって、そうではありませんか?


 健康とは「健やかに康らかに」と書きますね? ふだんのみなさんにとって、健康という言葉は、「苦しんでいない(快い)」ということを、表現するものではありませんか。


 いっぽう病気とは「気を病む」と書きますね。「気を病む」とは「苦しむ」ということですね? ふだんのみなさんにとって、病気という言葉は、「苦しんでいる」ということと、その苦しみが「手に負えない」ということを表現するものではありませんか。

 

 

 ほら、ふだんみなさんは、やれ健康だ、やれ病気だとしきりに言うことで、「苦しくないか(快いか)、苦しいか」を争点にしていますよね? でも医学が、みなさんとおなじように、やれ健康だ、やれ病気だとさかんに言ってはきながらも、そう言うことで争点にしてきたのは、実は「正常か、異常か」でした。


 医学は、健康を正常であること、病気を異常であることと独自に定義づけてやってきたわけです。


 医学がこのように争点をすり替えることになったのは、医学の独特な身体の見方に秘密があるのではないかと俺は睨んでいます。


 医学は身体を機械と見ます。ほんとうは機械ではない身体をそのように機械と思い込んだ結果、医学は、そうして争点をすり替えることになったのではないか、ということです。

 

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【雑談】博学の誉れ高いSF作家による下の著書では、科学分野で(つまりヨーロッパで)、身体を機械と見るのが当たり前になっていく歴史的経緯が、「身体機械論者にたいする生気論者の敗北」として書かれています。

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※2022年10月6日、2023年1月31日に文章を一部訂正しました。


*前回の短編(短編NO.46)はこちら。


*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。