*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第2回
先日、快さと苦しさについてどういったことを書いたのか、遠い目をしながら簡単にふり返っています。先日書いたその文章では、つぎの3つのことを確認しましたよね?
- 快さとか苦しさというのは何なのか。
- 西洋学問ではなぜ、快さや苦しさが何であるか、理解できないのか。
- 西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのか。
(先日書いた文章というのはこれです)
で、ついさっき1を再確認したじゃないですか。快さを感じているというのは「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであるいっぽう、苦しさを感じているというのは「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということなんだ、って。
今度は2について思い返してみますよ。なぜ西洋学問では、快さや苦しさをこうしたものと当たりまえに理解することができないのか。
西洋学問ではあやまって身体を機械と見なすじゃないですか。機械って、快さや苦しさを感じたりはしませんよね。機械には快いか苦しいかといった区分は見当たりません、ね? したがって、身体を機械と見なせば自動的に、快いか苦しいかといった区分を、見落とすことになるか、あるいは、機械に認められる何らかの区分として考えなくちゃならなくて行き詰まることになるか、に決まってるじゃないですか、ね?
西洋学問では身体をあやまって機械と見なす。結果、快さや苦しさが何であるか理解できなくなる、ってことですよね。
でもですよ、そもそもなぜ西洋学問では身体を機械と見なすんですかね? 西洋学問のもとで身体が機械と見なされるに至る経緯、見たじゃないですか。どんなでしたっけ?
いまからちょっとふり返ってみますね?
え〜、みなさんはふだん何を身体って言いますかね? 目のまえに自分の左手をかざしてみてくださいよ。みなさんが現に目の当たりにしているそのみなさんの左手の姿は、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあります、よね?
その眼前数十センチメートルのところにある左手は物(ブツ)ですか、ね?
けど、そこには、みなさんの、左手の感覚、もありませんかね? いわば、「物」と「感覚」というふたつの別もの同士が、みなさんの眼前数十センチメートルのそのおんなじ場所を、重なり合いながら占めてはいませんかね?
占めてますよ、ね?
おなじように今度は身体全体を考えてみますよ。
みなさんの身体の感覚はいま、頭の頂から下半身の末端までひと連なりになっているじゃないですか。その「感覚」が占めているのとおんなじ場所を、みなさんの、頭髪とか皮膚とか骨とか歯とか臓器とか血液といった「物」もまた占めていませんかね?
いや、占めてますよ、ね?
こんふうにおなじ場所を、重なり合いながら占めている「感覚」と「物」とをひとつに合わせて、ふだんみなさんは(自分の)身体と言うんじゃないですか、ね?
で、おんなじ場所を占めている「感覚」と「物」のうち、前者「感覚」のほうを、「身体の」感覚とか、「身体」感覚と言うんじゃないないですか、ね?
じゃあ、それに倣って後者「物」のほうは今後、「身体の」物(カラダ・ノ・ブツ)、もしくは「身体」物(シンタイ・ブツ)とよぶことにします?
さすがに身体物(シンタイ・ブツ)ってよびかたは無いですか、ね? なら、「身体の物」ってよび名で行きます*1?
おなじ場所を占めている「身体の感覚」と「身体の物」とをひとつに合わせたもののことを、ふだんみなさんは身体とよぶ、といったふうに以後、表現することにしますか、ね?
前回(第1回)の記事はこちら。
このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。
*1:このblogでは、「身体の物」といった言い方のほか、「身体の物部分」とか「身体の物的部分」といった表現をしています。