(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

なぜ快さや苦しさについて考察しなおさなければならないのか

*科学するほど人間理解から遠ざかる第32回


 最後に冒頭からこれまでを、遠い目をしながらふり返って終わります。


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといちばんはじめに、補足説明をつけて確認しました。


快さや苦しさが何であるか確認する(第3回〜第7回②)。


 ついで、そのようなものとして快さや苦しさを俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところから、たどりました。


快さや苦しさが何であるか理解するに至った道筋をたどる(第8回〜第17回)。


 で、そのあと、西洋学問ではそのようなものとして快さや苦しさを理解できないのはなぜなのか確認しました。西洋学問では、「絵の存在否定」と俺がよぶ不適切な操作を事のはじめになし、存在を、無応答で在るもの(客観的なもの)と事実に反して定義づけてしまうばっかりに、快さや苦しさが何であるか理解する道をみずから閉ざしてしまうとのことでした。


西洋学問では快さや苦しさが何であるか理解できないのはなぜなのか確認する(第18,19回)。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではいったいどういったものと誤解するのか。最後に見たのはそのことでした。西洋学問のもとに見られる快さ苦しさについての解釈をふたつ、ひとつは広く世間に流布しているもの(自覚症状という言葉を発するときにひとが採用しているもの)、もうひとつはアカデミックなもの(情動として定義するもの)を確認しました。それらの説をとると、訳がわからなくなって、快さや苦しさにまともにとりあえなくなるのをみなさんに痛感していただきました。


西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのか確認する西洋学問では、快さや苦しさにまともにとりあえなくなるのを確認する)(第20回〜第31回)。


 以上4点を、みなさんに見守っていただきながらここまで、見て参りました。


 いま俺は改めてヒシヒシと感じています。快さや苦しさが正当に着目されるようになる日が一刻も早くやってこなければならない、と。


 だって、そうではないでしょうか。みなさん、お考えにもなってみてください。


 みなさんは何を健康とし、何を病気とお考えになるでしょうか。健康とは「健やかに康らかに」と書きます。みなさんは、健康であるとおっしゃるとき、そのひと言で、苦しまずに居られていることをひとに知ってもらおうとなさるのではないでしょうか。いっぽう病気とは「気を病む」と書きます。気を病むとは苦しむということではないでしょうか。みなさんは、病気であるとおっしゃるとき、実にそのひと言で、苦しんでいることをひとに知ってもらおうとなさるのではないでしょうか。


 みなさんが健康であるとか病気であるとかとおっしゃるとき争点となさるのはこのように、苦しまずに居られているか、苦しんでいるか、であるように思われます。しかし、快さや苦しさにまともにとりあうことのできない西洋学問のもとでは、健康であるとか病気であるとか言うとき、みなさんのように、苦しまずに居られているか、苦しんでいるか、を争点にすることはできません。


 実際、健康であるとか病気であるとかと言うときに、西洋学問のもとで争点にしてきたのは、正常であるか異常であるかということでした。西洋学問では、健康とは正常であること、病気とは異常であることと定義づけてやってきました。その結果、西洋学問のもとでは、多くのひとたちが不当にも異常と決めつけられ、差別されてきたとは、何度も申し上げてきたとおりです(正常異常というのが何を意味するのか考えてみればすぐに、異常なひとなどこの世に存在し得ないとわかります。西洋学問では、正常異常という言葉の意味をろくに考察してきませんでした)。


 快さや苦しさにまともにとりあえなくなった結果西洋学問ではこのように一部のひとたちを差別することになってきたわけですが、事はそれだけでは済みませんでした。


 西洋学問のもとでは、治るとか治療とかいうのもみなさんのように考えることはありません。健康であるとか病気であるとか言うことで、苦しまずに居られているか、苦しんでいるかを争点となさるみなさんにとって、治るとは、苦しまずに居てられるようになること、治療というのは、苦しまずに居てられるようになるのに役立つもののこと、を指すように思われます。ところが、健康を正常であること、病気を異常であることと定義づけてきた西洋学問のもとでは、治るとは正常になること、治療とは正常になるのに役立つもののこと、と考えてきました。


 つまり、治療の趣旨を何とするかがみなさんと西洋学問のあいだでずっと異なってきました。みなさんは苦しまずに居てられるようになることとするいっぽうで、西洋学問では正常になること、もしくは異常にならないこととしてきました。


 こうした、治療の趣旨を何とするかのズレは、問題にならないときもあれば、看過できないときもあります。看過できないのは、副作用とか毒性とか副反応とかとよばれる苦しみをこうむる治療を医学から勧められたときです。


 そういったとき、苦しまずに居てられるようになることを治療の趣旨とお考えになるみなさんなら、その治療を受けると仮定した場合と、治療を受けないと仮定した場合のふたつをそれぞれご想像になり、どちらのほうが苦しさがマシになるか、予測にお努めになるのではないでしょうか(マシという判定は、苦しさの強度、苦しむ期間、苦しくなる頻度等を総合的に評価したものとお考えください)。そして、その治療を受けると、治療を受けない場合より、苦しさがマシになると思われれば、みなさんはこう結論づけるのではないでしょうか。


 治療を受けると、苦しさがマシになる。つまり「」をする。この「得」を打ち消すぐらい、治療によって生存期間が短縮するというのでなければ、この治療を受けよう、と。


 逆に、その治療を受けると、治療を受けない場合より、苦しさが酷くなると思われれば、こう結論づけるのではないでしょうか。


 治療を受けると、苦しさが酷くなる。つまり「」をする。この「損」を埋め合わせるくらい、治療によって生存期間が伸びるということでもなければ、この治療を受けることはできない、と。


 ですが西洋学問では、そういった苦しさの比較考量をろくにしてきませんでした(一部の良心的な医師たちを除いて)。みなさんなら、いまのような比較考量をなさって、勧められた治療をお避けになるような場合でも、医学は患者を正常にするために、もくしは異常にならないようにするためにと言って、治療を施してきました。治療を受けてこうむる苦しみ(副作用・毒性・副反応)は、正常になるためには、もしくは異常になるのを避けるためにはどんなものでも我慢するのが当然だと患者に強いてきました


 その結果、患者が気息奄々となって、早々に死んでしまっても、「治療は正しかった。思ったより病気が重かったのだ」と言い訳してきました。


 がん治療、抗ウィルス治療、抗細菌治療、精神病治療、各種予防治療などのもとにそうしたものの実例をみなさん、わんさかとお認めになるのではないでしょうか。


 快さや苦しさにまともにとりあうことができないために医学は苦しまずに居てられるようになりたいという多くのひとたちの要望をこうして治療によって裏切ることになってきたのではなかったでしょうか


 以上、快さや苦しさが正当に着目されるようになる日を、俺がいまかいまかと待ち望む理由をみなさんにうまくお伝えできていたら、幸いです。そうした日が一秒でも早くやってくることを切望しながら、快さと苦しさについて根本から考察して参りました次第です*1


第31回←) (完)         

 

 

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*1:2019年12月30日に文章と内容を一部修正しました。