*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第3回
先日、俺、長々と、快さと苦しさについて書いたじゃないですか。で、つぎの3つを確認したじゃないですか。
- 快さとか苦しさというのは何なのか。
- 西洋学問ではなぜ、快さや苦しさが何であるか、理解できないのか。
- 西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのか。
(先日、長々と書いたその文章はこちら)
遠い目をしながら、その3つを簡単に思い返している最中ですよ。
最初に1をふり返りました、ね? 快さを感じているというのは「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや、苦しさを感じているというのは「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということである、ってことでした、ね?
つぎに2の思い出に浸りましたね。
そのとき身体とは何か、確認することからはじめました、よね?
みなさんにとって身体とは何でしたっけ? みなさんにとって身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚」と「身体の物」とを合わせたもののこと、でした、ね? 身体のうちに「身体の感覚」は含まれました、ね?
でも、西洋学問では、身体をそうしたものとは見ないとのことだったじゃないですか。
事のはじめに、俺が「絵の存在否定」、「存在の客観化」とそれぞれよぶ、ふたつの不適切な操作を立てつづけに為す西洋学問のもとでは、身体は、元素(西洋学問では、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないものと考えられる)が寄り集まったにすぎないものと解される、ってことだったじゃないですか、ね?
そのように、元素が寄り集まったにすぎないものと解された身体を「身体機械」とよぶことにしました、よね?
西洋学問ではそうして身体のうちから「身体の感覚」を除外するってことでしたけど、じゃあ、除外したその「身体の感覚」を、西洋学問では何と解するのか?
心のなかにある、「身体機械の様子を知らせる情報」と解するとのことだったじゃないですか、ね?
で、そんなふうに身体を機械と見ると、快いか苦しいかといったことを、見落とすことになるか、もしくは、機械に見られる何かとして説明しなくちゃならなくて行き詰まることになるかする、ってことだったじゃないですか、ね?
では今日はここから、残りの3「西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのか」をいっちょふり返っていきます。
前回(第2回)の記事はこちら。
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