*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第1回
快いか、苦しいかという区分はみなさんにとって、非常に大事なものじゃないですか。先日、その区分について、長々と考察しました、よね? 今日はそれを簡単にふり返ってみようと思って、ひょっこり顔を覗かせたって次第です。
(先日の考察とはこれです)
その長々とした考察で、こういうことを確認したの、覚えてくれてますかね?
- 快さとか苦しさというのは何なのか。
- 西洋学問ではなぜ、快さや苦しさが何であるか、理解できないのか。
- 西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのか。
その3つをいまからひとつずつ順に、ざっくり思い返していきますね?
じゃあ1から。
快さや苦しさって何でしたっけね?
いま、強烈な快さを感じている場面をひとつ想像してみてくださいよ。快さを感じているその状態を、こう表現できるとみなさん、思いません?
今どうしようとするか、かなりはっきりしている、って?
じゃあ、今度は、めちゃんこ苦しんでいる場面を想像してみてくれますかね? 苦しさを感じているその状態はこんなふうに表現できるんじゃないですか、ね?
今どうしようとするか、あまりはっきりしていない、って?
いま、快さを感じているというのは「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであるいっぽう、苦しさを感じているというのは「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるって、えっ、ちょっとなにを言っているか、わからない?
……じゃあ、ゆっくりいちから確認することにしましょうか、ね?……
え〜っと、最初にここでも、みなさんにこう尋ねることからはじめようかな。
いまこの瞬間のみなさんの状態をご教示ください、って。
みなさん、この質問にどう答えます?
食事をしている、とか、駅に向かって歩いている最中である、とかって答えるんじゃないですかね?
つまり、「〜している」とか「〜中」といった文末表現をもちいて、みなさん、答えるんじゃないですかね?
みなさんの過去の或る一瞬の状態を尋ねても、みなさん、おんなじように答えてくれるんじゃないのかなあ。熱愛していたとか、バイト中だった、というように、「〜していた」もしくは「〜中」って文末表現をもちいて答えてくれるんじゃないのかなあ。
こうしたみなさんの答え方から、何がわかりますかね?
まさにみなさんは、どの瞬間でも、出来事の最中にいる、ってことがわかるんじゃないですかね?
したがって、こう言えませんかね? みなさんは、生きているあいだ中、どの瞬間でも、「今という一瞬を、どういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもって答えるんだ、って?
身をもって、「今という一瞬を、出来事の最中とする」このことを、ふだんみなさん、行動とか運動とかとよんでるんじゃないですか、ね?
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