(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

快いとか苦しいとかいうのはどういうことか、遠い目をしてふり返る(2/2)

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第1回


 さあ、いまこう言いましたよ。みなさんは生きているあいだ中どの瞬間でも、「今という一瞬をどういった出来事の最中とするかという問いに身をもって答えるんだ、って。


 この問いは別様に言い換えられたじゃないですか? どうですか、なにか思い出しましたか?


 さっき、話しを、こう尋ねることからはじめました。「いまこの瞬間の、もしくは過去の或る一瞬の、みなさんの状態を教えてください」って。そのときみなさんは、「〜している/していた」もしくは「〜中」って文末表現をもちいて答えくれるだろうってことでした。


 でも、別の文末表現をもちいて答えくれたひともいたんじゃないかな。


 通勤・通学しようとしているとか、結婚しようとしていた、といったふうに、「〜しようとしているしようとしていた」といった文末表現をもちいて答えてくれたひと、いたんじゃないですかね?


 たとえば、「いまこの瞬間のみなさんの状態を教えてください」って質問に、駅に向かって歩いている最中であると答えたひとは、そのとき渦中にいた歩行という出来事の行き着く先に着目して、こう答えることもできたはずだってことですよ。「通勤しようとしている」、って。


 かたや「みなさんの過去の或る一瞬の状態を教えてください」って質問に、熱愛していたと答えたひとは、そのとき渦中にいた熱愛っていう出来事の行き着く先に着目して、「結婚しようとしていた」って答えることもできたってことです。


「いまこの瞬間の、もしくは過去の或る一瞬の、みなさんの状態を教えてください」って質問にみなさんは、「〜している/していた」とか「〜中」といった文末表現をもちいて答えることもできたけど、「〜しようとしているしようとしていたって言い方を使って答えてくれることもできたってことですよ。


 このように、「〜中」もしくは「〜している/していた」という文末表現は、より先の未来に着目して、「〜しようとしている/しようとしていた」といった言い方に換えることができます、ね? みなさんは、生きているあいだ中ずっと、どの瞬間でも、「今という一瞬をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもって答えるんだってことだったじゃないですか。じゃあ、その「出来事の最中とするってところをしようとするといった表現に換えてこう言い改めることもできるんじゃないですか、ね?


 みなさんは、生きているあいだ中ずっと、どの瞬間でも、「どうしようとするか」という問いに、身をもって答えるんだ、って(ただし「今」という表現で、今という一瞬を表すものとしますよ。以下略)。


 すると、「今・どう・しようとするか」という問いにみなさんが身をもって答えた結果、今どうしようとするか、かなりはっきりしていれば、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」そのことを、快さを感じているといったふうに表現し、今どうしようとするか、あまりはっきりしていなければ、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」そのことを、苦しさを感じているといったふうに表現するんだ、ってことになるじゃないですか、ね?


 先日、こういう感じで、快さや苦しさが何であるか確認したじゃないですか*1。でも、西洋学問では(べつに西洋学問に限った話ではないでしょうけど)、快さや苦しさをこういったものとして的確に理解することはできないんだってことでした、よね? つぎに復讐する、あ、ちがった、復習するのは、そのことですよ。


 先に挙げた番号2に行きます、ね?


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このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。

 

*1:先日、快さと苦しさが何であるかを確認したときの記事はこちら。 

「科学するほど人間理解から遠ざかる」第3回


第4回


第5回


第6回


第7回