(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

「科学」にあんパンはどう見える(4/4)

*「科学」を定義する第4回


◆「科学」にとってのあんパンは(結論)

 科学は事のはじめに、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるものではなく、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするとのことでしたね。で、その流れにしたがって、「存在」と「関係」をそれぞれ、実際とは別のものにすり替えるとのことでしたよね。するとその結果、あんぱんは元素のよせ集まったにすぎないものであることになるということでしたね(ただし科学にとって元素とは、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないものです)。


 箇条書きにしてみますか

  • .科学は、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにする。
  • .みなさんの眼前数十センチメートルのところに実在しているホンモノのあんパンを、元素のよせ集まったにすぎないものであることにする。


 そのうえで科学は、見るということをこう考えます。みなさんの心の外に実在しているホンモノのあんパン(前記2)から、「そのホンモノのあんパンについての情報」が、光にのってみなさんの眼球まで飛んできて、そこで電気信号に様式を変換される。そして電気信号のかたちで神経を伝い、脳まで運ばれたあと、今度はそこで映像に様式を変換され、心のなかに見出されるに至る。その、心のなかに見出された「ホンモノのあんパンについての情報」(映像)こそ、現にみなさんが見ているあんパンの姿なのだ、って。

  • .みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある、「ホンモノのあんパンについての情報」であることにする。


 だけど、みなさんが現に見ているあんパンの姿はそもそも、心のなかにある映像なんかではありませんでしたね。ほんとうは、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるとのことでしたよね。で、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、逐一答えるとのことでしたね。あんパンは、肉眼で対峙すれば、みなさんが現に見ているそうした「マクロな姿」を呈し、電子顕微鏡で臨めば、原子からなる「ミクロな姿」を呈するが、そのどちらの姿も、ホンモノであって、共に、みなさんの眼前数十センチメートルのところにある、とのことでしたよね。にもかかわらず、科学は、ほんとうはおなじ場所を占めているそれら「マクロな姿」と「ミクロな姿」をそれぞれ、ニセモニとホンモノに分け、ニセモノとした前者の「マクロな姿」のほうを、心のなかにある、「ミクロな姿(後者)についての情報」であることにする、とのことでしたね。


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