*「科学」を定義する第4回
◆「関係のすり替え」を経たあとのあんパン
ではつぎに、「関係のすり替え」を考え合わせるとしましょうか。「存在のすり替え」のあとさらに「関係のすり替え」を経ると、あんパンはどういったものであることになるのか。
みなさん、科学は関係を実際とは別のどういうものにすり替えるのだったか、覚えていますか。
あんパンはほんとうは、自らのありようを自ら律するという形で、「他のもの」と関係しているのに、科学は関係をそのように素直に受けとりはしないとのことでしたね。あんパンは、自らのありようを「他のもの」に、力というものをもちいて、律せられるという形で、「他のもの」と関係しているのだと考えるとのことでしたね。
そんな科学はあんパンを、ちょうどいま見ましたように、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何かであることにしたあと、力が具わっていることにします。そうしてあんパンを、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力が具わっているか」ということだけが問題になるもの、であることにします。
そうすれば、あんパンは、「他のもの」と関係していることになりますよね?
でも、「どの位置を占めているか」ということと「どんな力が具わっているか」ということだけが問題になるものとは、いったい何でしょうね?
みなさんは何だと思います?
元素のよせ集まったもの、ではありませんか。
ちょっと詳しく見ていきましょうか。
ひとつのあんパンと言っても、その各部分のあいだには当然違いがありますね。パン生地、あん、空洞、ゴマといろいろあって、互いに違いがありますよね。しかも一概にパン生地と言ったって、ところどころ焼け具合は異なっていますし、ゴマだって、ひとつひとつのゴマのあいだには形や色の違いがありますよね? ひとつのゴマでも各部のあいだに違いが認められますしね? 科学はあんパンを、「どの位置を占めているか」ということと「どんな力が備わっているか」ということだけが問題になるものと解するとのことでしたけど、あんパンひとつを一単位と見て、あんパンのどの部分も、具わっている力はおなじと考えると、そうしたあんパン各部のあいだに認められる違いは当然説明できなくなりますね?
そこで科学は、あんパン各部のあいだに認められるそうした違いを説明するために、あんパンをできる限り、細分化していき、それぞれを別のもの(別の力をもったもの)であることにします。
その細分化された最小単位がいわゆる、元素、ですよ。
このように、「存在」と「関係」それぞれを実際とは別のものにすり替える科学の手にかかると、みなさんの眼前にあるテーブル上のあんパンは、元素のよせ集まったにすぎないものであることになります(ただし科学にとって元素とは、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないもの、です)。
たしかにあんパンは、肉眼で見れば、こんがり茶色で、頭には黒いツブツブをのせた、言うなればマクロな姿を呈しますけど、電子顕微鏡などで見れば、原子のよせ集まった、言わばミクロな姿を呈しますよね? あんパンは実のところ、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、逐一答えるものだと最初に確認しました。俺が肉眼で対峙するか、それとも電子顕微鏡を通して対峙するかで、そのように、あんパンは姿を変えますね? でも、そのどちらも、あんパンの姿ですよね? どちらかがホンモノで、どちらかがニセモノだということは絶対にありませんね? 俺が見ている、ステージ上の矢沢永吉さんの姿だけがホンモノで、そのとき他の観客が見ている永ちゃんの姿はことごとくニセモノだということはないのとおなじですね? あんパンの「マクロな姿」も「ミクロな姿」も、共にホンモノですよね。ところが、「存在」と「関係」をそれぞれ実際とは別のものにすり替える科学は、いまさっき見ましたように、あんパンの「ミクロな姿」だけをホンモノ扱いし、「マクロな姿」のほうはニセモノ(主観的要素)であることにして、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしてしまいます。
さて、いまわかったことをまとめますね。
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