*「科学」を定義する第4回
まずそれらふたつの姿のあいだに認められる違いを確認するところからはじめますね。何が違っていますか。いまさっき確認しましたように、いっぽうの姿は、東京ドームを真上から見たような丸い形をしていて、もうかたほうの姿は、伏せたお椀を横から見たような形をしているとのことでしたね。そのように「容姿」とでも言うべきものがふたつの姿のあいだでは異なっていますよね(姿の「大きさ」も異なっていますが、それもこの「容姿」のちがいのなかに入れて考えさせてくださいね)。
また「色」も異なっていますね。テーブルの真上から見下ろしたときには、あんパンは、電灯の光を受けたみなさんの頭が落とす陰のなかにあって、薄暗く見えますよね。かたやテーブル表面の高さまで視線を落として遠くから見たときには、あんパンは真上の電灯の光を遮られることなくサンサンと浴び、こんがりした茶色をありありと呈しますね。そのてっぺんをすこし黄色っぽくしたりしてね。
あんパンのふたつの姿はこのように、「容姿」と「色」が異なっていますよね。
科学は、あんパンのこれらふたつの姿から、互いの姿のあいだに認められる違いをそれぞれ、主観的要素にすぎない(みなさんの心のなかにある像にすぎない)としてとり除くとのことでした。その違いというのは、いま確認しましたように、「容姿」や「色」でしたね。では、「容姿」と「色」を、それらあんパンの姿ふたつからそれぞれとり除いてみましょうよ。するとそのあと、両者の姿に何が残ると思います?
両者の姿に残るのは、互いにおなじ位置を占めているということ、だけではありませんか。
つまり、あんパンの姿ふたつそれぞれから、そうして互いの姿のあいだに認められる違い(「容姿」と「色」)を主観的要素にすぎないことにしてとり除けば、そのあと両者に残るのは、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何か(哲学用語で言うところの延長)、になるのではありませんか。
(いま見ている操作を史上初めてやってのけたのは、近代哲学の祖にして近代科学の創始者のひとりであるデカルトですね? 「延長」は彼の言葉ですよね。)
いまこういうことを確認しましたよ。
科学はまず、みなさんが見ているあんパンの姿を、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるものでなく、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにする。で、つぎに、その流れにしたがって、存在を別ものにすり替える。結果、あんパンは、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何かになる、って。
でも、もしあんパンが、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものにすぎないなら、あんパンはただぽつんと在るだけで、「他のもの」と一切関係していないことになりますね?
したがって、関係についても考え合わさなければならないということになりますよね?
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