(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

「科学」は存在と関係を別ものにすり替える(2/3)

*「科学」を定義する第3回


◆存在のすり替え

 みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるものではなく、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするのが、そうしたすり替えのキッカケであると、さっきから何度も言っていますよね。科学にはそのように、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしなくてはならない事情があるとのことでしたね(そのことを前回確認しましたね)。


 科学は事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為す。その結果、科学には、現にみなさんが見ているあんパンの姿が、みなさんから離れたところにあると認められなくなる。みなさんの心のなかにある映像であるとしか考えられなくなる。そして、みなさんから離れたところにあるあんパンそれ自体はみなさんには見えないものであることになる、ということでしたね。


 そのように科学にとって、みなさんから離れたところにあるあんパンそれ自体は、見ることのできないもの、です。みなさんがまぶたを閉じようが、開けようが、その方に視線を向けようが、あるいはそっぽを向こうが、そんなことには無応答で、見えないままだし、みなさんが度の合ったメガネをかけて見つめようが、メガネを外して裸眼で視線を送ろうが、はたまたサングラスをかけて眺めようが、そんなことにも無応答で、見えないままのものです。


 そこで科学はあんパン(それ自体)を、ただただ無応答で在るもの、にちがいないと決めつけます。


 つまり、こういうことですよ。


 科学にとってあんパン(それ自体)は、みなさんがまぶたを閉じようが、開けようが、メガネをかけようが外そうが、そんなことには無応答で、見えないまま、といま言いましたね。だけど、それだけにとどまらずみなさんが近づいて行っても終始、無応答で、何ら変化しないし、逆にみなさんが遠ざかって行っても終始、無応答で、何の変化もしない、またみなさんが部屋の明かりをつけたり消してたりしても終始、無応答で、何ら変化しないと考えるということですよ。


 科学はそうしてあんパンを「ただただ無応答で在るもの」(客観的なもの)と決めつけます。


 でも実際あんパンはただただ無応答で在るものなんかではありませんね。確認してみましょうか。みなさんには前回からずっと、眼前のテーブル上にあるあんパンを見ているものと仮定してもらっていますけど、みなさん、今度は、そのあんパンにゆっくり近づいて行く場面をいまから想像してみてくれますか。


 みなさんが見ているあんパンの姿は当初、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるとのことでしたね。どうですか、その姿は、みなさんが近寄っていくにつれ、刻一刻と大きくなっていきませんか。


 いや、あんパンはそのように姿を刻一刻と大きくしていくことで、実寸を終始一定に保ちますよね。もしその姿がずっとおなじ大きさなら、みなさんは、刻一刻とあんパンの実寸が縮んでいっているのを見ていることになりますね?


 さらに、みなさんが近寄っていけば、あんパンは刻一刻とその姿をくっきりとさせてもいきますね?


 近寄っている途中でみなさんがメガネを外せば、あんパンの姿は一気にぼやけたものに変わりますし(みなさんの視力が悪いものと仮定させておいてくださいね)、再びみなさんがメガネをかければ、くっきりした姿に戻りますね? みなさんが度付きサングラスをかければ、どうですか。一転、薄暗い姿をとるようになるのではありませんか。部屋の明かりをつければどうでしょう。あんパンの姿は明るいものになり、反対に部屋の明かりを消せば、薄暗いものに変わるのではありませんか。


 実際あんパンはこのように、「ただただ無応答で在るものなんかではありませんね。むしろ、みなさんの身体や、部屋の明かりや、といった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるかという問いに、逐一答えますね?


1/3に戻る←) (2/3) (→3/3へ進む

 

 

前回(第2回)の記事はこちら。


このシリーズ(全5回)の要旨と記事一覧はこちら。