(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学はいつだって、自分の思い込みに合うよう現実を修正する

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第10回


 科学は事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなし、「存在の客観化」という存在すり替え作業をやるハメに陥るとのことだった。


 どういうことだったか。


 僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて、みなさんに最初にご確認いただいた。柿の木は僕が歩みよるにつれ、刻一刻と姿を大きくし、太陽が雲間にかくれればその姿を黒っぽく、また太陽が雲間から顔を出せば姿を黄色っぽくする。そのように柿の木は「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものである、と。


 ところが事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学は、柿の木を、僕が歩みよろうが、サングラスをかけようが、太陽が雲間に隠れたり雲間から顔を出したりしようが、僕とのあいだを中学生の一団が通りすぎようが、終始不変であるもの、すなわち、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)と考える、とのことだった。


 さあ、しかし、あくまで柿の木は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものである。そこで科学は柿の木を、無応答で在るものであることにするために、現実を修正することにする。


 こんなふうにである。


 まず科学は、僕が歩みよっているあいだ実際に目の当たりにする柿の木の一瞬ごとの姿ひとつひとつを点検していってこう決めつける。それら一瞬ごとの姿同士のあいだにはちがいが認められるが、そのちがいはきっと柿の木のニセ要素(主観的要素)にすぎず、それぞれの姿からとり除いて、僕の心のなかにポ〜イと捨てやることができるにちがいない。実にそうすれば、柿の木の姿はどの一瞬のものもみな、たがいにちがいひとつすらないもの同士であることになる。柿の木は、僕が歩みよっているあいだ終始不変であって、無応答で在るものであることになる、と。


 で、そのとり除き作業のあと、柿の木の一瞬ごとの姿のどれにも残るものをこそ、柿の木のホントウの姿(柿の木の本性と呼ばれたりする)であると科学はし、僕がある瞬間に目の当たりにする柿の木の姿を、「ホントウの柿の木(柿の木の本性)+主観的要素(ニセ要素)」であることにするわけである。


 いまご確認申し上げたように、「存在の客観化」では、柿の木を「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものから、無応答で在るもの(客観的なもの)にすり替えるために、実際に僕が目の当たりにする柿の木の一瞬ごとの姿同士のあいだに認められるちがいを、主観的要素にすぎないと因縁をつけ、それぞれの姿からとり除くといった現実修正をする。


 じゃあ、その主観的要素をとり除いたあと、それぞれの姿に共通して残る、たがいにちがいひとつすらないものとは、何なのか。


 その何かこそ、ホンモノの柿の木であると科学は言うが、それはいったい・・・・・*1

つづく


僕が「存在の客観化」とよぶ、この存在のすり替え作業は以下の著書で見られます。

省察 (ちくま学芸文庫)

省察 (ちくま学芸文庫)

 
哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

 
哲学入門 (ちくま学芸文庫)

哲学入門 (ちくま学芸文庫)

 


前回(第9回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年7月5日と同年10月28日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。