(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学が科学らしい産声を生まれるまえにあげたとき③

*科学の出発点をナミダナミダで語り直す第8回


 僕がいまこの瞬間、柿の木の姿を目の当たりにしているというのはどういうことだったか。たがいに数十メートル離れた場所にある柿の木の姿僕の身体とがその瞬間、共に「柿の木を見ているという僕の体験の部分」であるということだった。そのとき、僕が目の当たりにしている柿の木の姿も、「柿の木を見ているという体験の部分」であれば、そのときの僕の身体も、「柿の木を見ているというその体験の部分」である。これら共に、「同じひとつの体験の部分であるふたつのうちいっぽうの僕の身体をそのとき存在しているものと認めれば、自動的に、「同じ体験の部分」であるもうかたほうの柿の木の姿もそのとき存在していると認めるのが筋ということになる。つぎの瞬間、その柿の木の姿が、錯覚とわかると同時に、もしくは夢が覚めるのと同時に、消えて無くなるとしても、いまこの瞬間に柿の木の姿が僕の前方数十メートルのところに存在しているのはまちがいのない事実である。


 このとき、柿の木も僕の身体も存在していると断言できる


「われ思う、われ在り(心と心の中身が存在することしか絶対確実と請け合えない)」とするデカルトの第一結論や方法的懐疑は「絵の存在否定」でもそのまえに為しておかなければ決して出てこない発想であると僕には思われる。そもそも心(意識とも呼ばれる)なる正体不明なもの自体、そうした不適切な操作無しには持ちだされ得ないじゃないか。


 さて、「絵の存在否定」という不適切な操作を著書の外であらかじめ為すところからはじめ、心と心の中身が存在することだけしか絶対確実と請け合えなくなったデカルトは、そのあと、心のうちにある像に対応するものがたしかに心の外に実在していると信じられるようになるため、神の存在証明に向かうが、その次第はみなさん、デカルトの本をお読みになってよくご存じのところだろう。僕がそこまで語るとさらにヘビに足が生える。

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

 
デカルト (岩波新書)

デカルト (岩波新書)

 


 科学がいまばく進している道の出発点でデカルトが為した「絵の存在否定」という不適切な操作を、拙い表現力をケナゲにも駆使して、ひとが頭を抱えたり、眉間にシワを寄せたり、イヒヒと笑ったりしているなか、表現しようと努めてきた。


 これでナニほどかを申せたのかそれともナンにも申せなかったのかは、ただただ痛む胃をさすることしかできない僕にはまったく不明であるけれども、ただつぎのことは申し上げられるのではないかとウヌぼれている。


 ここで僕がやろうしたことが、やれたかどうかはもちろん別として、冒頭で名をあげたメルロ=ポンティハイデガー現象学の名でつなぐフッサール、その彼が神経質な僕も負けるくらいシツコク説きつづけたかの「現象学的還元」に当たるということ、コレである。

現象学の理念

現象学の理念

 
これが現象学だ (講談社現代新書)

これが現象学だ (講談社現代新書)

 


 あっ、つぎのこともリキ入れて断言できそうな気がしてきた。


 科学が事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為すことによって、存在しているのに存在していないことにしてきたもの、これを認め直すところからはじめ、存在、身体、行動、感情、快さ苦しさ、健康、病気、医療、人間理解、をあらたに捉えきることがひそかに、しかし切に待ち望まれている、と。


 そこからあらたな、それでいてなじみ深い視野がカッと開けてくるのではないかと思われて、ワクワクなさらない?


 今年2018年は、行動、感情、快さ苦しさ、を捉え直すつもりにしているとこの文章で申し上げるのは、二度目のこれが最後である。


 では、みなさんまたいつか。Or are you gonna go with me? サイドカーの座席ならあいているが? 予備のヘルメットも、ほら、そこに。


 あれ、エンジンがかからない・・・・・・


第8回②←) (完)         

 

 

2010年1月26日に文章を一部修正しました。


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