(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学のはじまりはいつも「絵の存在否定」

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第2回


 科学は事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなし、僕が体験するもの一切を  現に僕が目の当たりにするみなさんの姿、現に聞くみなさんの美声、現に嗅ぎ味わうワンカップ大関の匂いと味、現に感じる身体感覚を  僕の心のなかにある像であることにする。で、そのあと、「存在の客観化」という作業をやり、僕の心の外にホントウに実在するのは、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素」だけであるいうことにする。


 僕がこれからやるのは、こうした存在のすり替えを、いかにも神経質な人間のやることらしいと苦笑されるくらい、微に入り細に入り、語り直すことである。


 じゃあ、科学が事のはじめになす「絵の存在否定」という操作について話すところから出発しよう。


 僕がいまこの瞬間、柿の木を見ているとみなさん、ご仮定くださるだろうか。そうご仮定いただければ、こんなふうに「絵の存在否定」をちらっと実演してお見せすることができる


 その瞬間に僕が目の当たりにしている柿の木の姿は、僕の前方数十メートルのところにある。僕はそのとき、数十メートル先にあるその姿を目の当たりにしているわけである。つまり、たがいに数十メートル離れた場所にある、柿の木のその姿と、僕の身体とは、このとき、僕のしている体験(柿の木を見ているという体験)の部分であると言える。


 科学はここでつぎのふたつの操作から「絵の存在否定」をはじる。

  1. その瞬間、柿の木と僕の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)
  2. しかしそれらふたつのどちらをも、「僕のしている体験の部分とは認めない(部分であることを否認)。


 すると、どうなるか。


 そのとき「柿の木を見ているという僕の体験」は存在していないことになる。僕にはそのとき、柿の木が見えていないことになる。見えていない柿の木と、僕の身体とがたがいに離れた場所にただバラバラにあるだけということになる(3.絵が存在していないことになる)。


 でも、その瞬間、僕は現に柿の木の姿を目の当たりにしているんじゃ? 


 そこで科学は、心なる正体不明の何か(ほんとうはこの世に存在しないもの)を持ち出してきて僕がその瞬間、現に目の当たりにしている柿の木の姿を、僕の前方数十メートルのところにあるものではなく、僕の心のなかにある映像であることにする(4.場所の追放)。


 そして、心のなかにあるその映像に対応しているホンモノの柿の木が、僕の心の外で、僕の身体の数十メートル先に実在しているはずだと考える(5.存在のすり替え)。


 これからみなさんと一緒に詳しく見ていく、僕が「存在の客観化」とよぶところの作業を科学がやるのはこの段階で、である。


 さて、最後まで「絵の存在否定」をやりきっておこう。残りあとちょっとだし。


 科学は、心の外に実在しているホンモノの柿の木についての情報が、当の柿の木から光にのって僕の眼までやってきて電気信号にかたちを変えたあと、神経をつたって脳にいき、そこで心のなかの映像に変換されるとし、その映像こそ、 そのとき僕が現に目の当たりにしている柿の木の姿だということにする(6.知覚=情報伝達変換論)。


 以上、「絵の存在否定」をちらっと実演してお見せした。


 つぎはいよいよ「存在の客観化」を詳しく見ていく番である*1

つづく


前回(第1回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年6月23日と同年10月22,23日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。