(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

「存在の客観化」とは存在を別ものにすり替える作業①

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第9回


 僕が柿の木に歩みよっている場面をご想像いただきながら、柿の木と僕の身体について確認した。


 長々となんやかや申し上げてきたが、要は、柿の木にしろ、僕の身体にしろ、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるものであるということだった。


 だけど、そもそもなぜこんな確認をしたのか。


 えっと、なんでだっけ、あ、そうそう、科学が事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなしたあとにやる「存在の客観化」というのがどんな作業か見るためだった。


 こういうことだった。科学は事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなし、僕が現に目の当たりにしている柿の木の姿を、僕の前方数十メートルのところにあるものではなく、僕の心のなかにある映像であることにする。そして、「存在の客観化」をやって、僕の心の外に実在しているホンモノの柿の木は、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まり」にすぎないと結論づける。


 じゃあ、いまから、この「存在の客観化」という作業によって、柿の木が、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まり」にすぎないとされるに至る経緯を、みなさんと一緒に見ていこう。


 先にお確かめいただいたように、柿の木は、僕が歩みよっていくにつれ、姿を刻一刻と大きくする。太陽が雲間にかくれればその姿を黒くし、太陽が雲間から顔を出せば、姿を黄色っぽくする。柿の木は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える、いわば相対的なものである(哲学用語で言えば、対他的、ということになろうか)。


 でも科学はまったく逆に柿の木を、無応答で在るもの、いわば絶対的なものと決めつける。


「存在の客観化」はこのように存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものから、無応答で在る、絶対的なものにすり替える作業であると言える。


 しかし科学はなぜそんなすり替えをやろうと思い立ったのか*1


前回(第8回)の記事はこちら。


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*1:2018年10月27日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。