(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

fakeなあの世界的大発明品、あらわる

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第12回


 僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて「存在の客観化」という存在のすり替え作業を見ている。


 柿の木は、僕が歩みよれば、その姿を刻一刻と大きくし、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりすれば、その姿を黒くもしくは黄色っぽくするといったように、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものである。しかし科学は「存在の客観化」という作業によって柿の木を、僕が歩みよろうが、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりしようが、何ら変わることのないもの、すなわち、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)へすり替えるとのことだった。


 ここまで確認してきた「存在の客観化」の作業過程を箇条書きでふり返るとこうである。

  1. 事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学は、柿の木を、無応答で在るものと考える。
  2. 科学は柿の木を、そうしたものであることにするのに邪魔になるものを、当の柿の木の姿から、主観的要素にすぎないと因縁をつけてとり除き、心のなかにうち捨てる。
  3. その結果、柿の木は「どの位置を占めているかということしか問題にならないもの延長)であることになる。


 柿の木はこのように無応答で在るものにすり替えられ、「との関係を失う(科学にとって存在同士は、たがいに無応答で在るものである)。


 いま、「存在の客観化」作業の過程で、柿の木が「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもの(延長)であることにされるところまで見たが、実に、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもの(延長)は、「他」とまったく無関係である。


「存在の客観化」は、存在を別ものにすり替える作業であると同時に、存在同士の関係を否認するものであるとも言える。


 科学は「存在の客観化」によって、存在同士をこうしていったん無関係にしておいてから、再度つなぎ直すわけである。


 でも、ほんものの関係でつなぎなおすことはもはや科学にはできない。だって、ほんものの関係でつなぎ直すというのは、存在を「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるものと考え直すこと、要するに、いったんやりかけた「存在の客観化」をとりやめることに他ならないじゃない?


 科学がこのとき存在同士をつなぎ直すのにもちいるのは、因果関係、という発明品(fake関係)である。


 因果関係とは言ってみれば、存在が力なるものを用いて、別存在のありようを変えるといった関係である。「存在の客観化」によって科学は存在を「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものにするとのことだった。となれば、存在が力なるものを用いて変える、別の存在のありようとは、その位置取りのこととしか考えられないだろう。


 したがって因果関係はこう言い改められる。


 力なるものを用いて、別存在の位置取りを変えることである、と。


 存在は、こうして因果関係なる発明品で他とつなぎ直された結果、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものから、「どの位置を占めているかということとどんな力を持っているかということしか問題にならないもの、に成りあがるに至る*1

つづく


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*1:2018年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。