*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第9回
みなさん、ご想起あれ。科学が事のはじめになす「絵の存在否定」という不適切な操作を冒頭で復習した、あのときのことを。
そのさい、僕が柿の木を見ているある一瞬をお考えいただいた。
その一瞬に僕が目の当たりにしている柿の木の姿は、僕の前方数十メートルのところにあった。たがいに離れた場所にある、その柿の木の姿と、僕の身体とは、そのとき共に、柿の木を見ているという僕の体験の部分であると言えた。ところが科学はつぎのふたつの操作をやり、「絵の存在否定」をなすとのことだった。
- 柿の木と僕の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。
- しかしそれらのどちらをも「柿の木を見ているという僕の体験」の部分とは認めない。
すると、どうなったか。
「柿の木を見ているという僕の体験」は存在していないことになって、そのとき僕には柿の木が見えていないことになった。見えていない柿の木と僕の身体とが、たがいに離れた場所にただバラバラにあるだけ(孤立してあるだけ)ということになった。
こうして「絵の存在否定」という操作の結果、柿の木は、僕がまぶたを開けていようが、逆にまぶたを閉じていようが、目を細めていようが、サングラスをかけていようが、そんなことにはお構いなしに、見えないままでまったく変わらないということになった。このことから科学はこう決めつける。柿の木は、無応答で在るものである、と。つまり、僕がまぶたを開けていようが、逆にまぶたを閉じていようが、目を細めていようが、サングラスをかけていようが、見えないままでまったく変わらないというだけではなく、近寄っていっても、反対に遠ざかっていっても、頭を下にしても、太陽が雲間に隠れても、再び雲間から太陽が顔をのぞかせても、何ら変わることはないものであるとまで決めつけるというわけである。
科学はこのように事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなし、柿の木を、見えないものであることにしたあと、無応答で在るものとまで決めつける。これこそ科学が柿の木を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものから、無応答で在る絶対的なもの(科学用語でいえば客観的なもの、哲学用語でいえば即自)にすり替える次第である*1。
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*1:2018年10月27日に内容と表現を一部修正しました。