*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第15回
これまで、僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて(本人にはそんなつもりは毛頭ないが)ダラダラとおしゃべりしてきた。その場面をみなさんには、遅刻しそうになった僕が上空からパラシュートで柿の木のもとに舞い降りるところからお話ししはじめた。
時間をもうすこし過去にさかのぼる。
僕が**空港の滑走路へそのパラシュートを抱えてコロがるように走り出たとき、ヘリコプターははるか遠方に見えた。準備は整っているようで、すでにプロペラは回っていた。そして、あわてた僕がツマずいたりヨロケたりしながら駆けよっていくと、そのプロペラの音は、刻一刻と大きくなっていった。
しかしいま、プロペラの、音量、が大きくなっていったと申し上げたのではない。
プロペラ音の音量は僕がヘリコプターに駆けよっているあいだほぼ一定だったと考えられる。柿の木に歩みよっている場面でもおなじようなことを申し上げたけど、あくまで刻一刻と大きくなっていったのはプロペラ音の姿、とでも言うべきものである。
プロペラ音は途中、僕が手で耳をふさぐと、コモった姿になり、耳から手を離せば、触るものみな傷つける鋭さをとり戻した。もしこれがビルに囲まれた場所だったら音はもっと反響してたろうと考えていてコケそうになったのを覚えている。ヘリコプターのなかに入って、ドアを閉めると音は少しマシになった。
このように音は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるものである。
だけど、科学は事のはじめにつぎのふたつをもって「絵の存在否定」という不適切な操作を開始する。
- このとき、プロペラ音と僕の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。
- しかし、それらのどちらをも「音を聞いているという僕の体験」の部分とは認めない(部分であることを否認)。
すると、どうなるか。
そのとき、「音を聞いているという僕の体験」は存在していないことになって、僕にはプロペラ音が聞こえていないことになる(3.絵が存在していないことになる)。聞こえていないプロペラ音と僕の身体とが、たがいに離れた場所にただバラバラにあるだけということになる。
そこで科学はこう考える。
プロペラ音は、離れた場所で僕が手足を動かそうが、耳をふさごうが、何をしようが、聞こえないままで、何ら変わることはない。プロペラ音は、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)である、と。
このように、プロペラ音を事実に反して、無応答で在るものと決めつけるところから、「存在の客観化」作業ははじまる。
ついで科学は、ヘリコプター音をこのようなものであることにするため、ヘリコプターに駆けよっている間に僕が聞くプロペラ音の一瞬ごとの姿同士のあいだに認められるちがい(すなわち音)を、それぞれの姿から、主観的要素(ニセモノ)にすぎないと因縁をつけてとり除き、ポ〜イと僕の心のなかにうち捨てる。
そうすれば、どの姿もみな、たがいにまったくひとつとしてちがいをもたないことになり、僕が駆けよっているあいだ、プロペラ音は終始不変だったことになる。
こうしてヘリコプター音は、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもの(延長)であることになる。
科学は、たがいに無関係である、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもの同士を、因果関係なる発明品でつなぎ直す。結果、ヘリコプター音は、「どの位置を占めているか」ということと「どんな力をもっているか」ということしか問題にならないものに成りあがる。
結局、ヘリコプター音は空気の振動であることになるというわけである*1。
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*1:2018年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。