(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

存在が、魅惑の、変身①

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第11回

 僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて考察している。


「存在の客観化」で、柿の木は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものから、無応答で在るもの(客観的なもの絶対的なもの)にすり替えられるとのことだった。


 最初に確認したように、柿の木は、僕の身体が近づくにつれ、刻一刻とその姿を大きくし、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりすれば、姿を黒っぽくしたり黄色っぽくしたりするといったように、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものである。


 しかし事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学は逆に、柿の木を、僕の身体が、行ったり来たりしようが、逆立ちしようが、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりしようが、何ら変わることがないもの、すなわち、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)と考える。


 そして科学は柿の木をそうした無応答で在るものであることにするために、僕が歩みよっている間に目の当たりにする柿の木の一瞬ごとの姿同士のあいだに認められるちがいを、主観的要素にすぎないと因縁をつけて、それぞれの姿からとり除き、僕の心のなかにポ〜イとうち捨てる。で、そのあと、それぞれの姿に共通して残る、たがいにちがいがひとつすらないものをこそ、ホントウの柿の木(柿の木の本性)であることにする。実にそうすれば、柿の木は僕が歩みよっているあいだ終始不変であって、無応答で在るものだと言えるようになるというわけだった。


 でも、そのホントウの柿の木っちゅうのは、いったいどんなものなのか


 僕が柿の木に歩みよっているあいだ、柿の木が刻一刻と姿を変えるのを、みなさんに当事者になったつもりで何度もご想像いただいてきたけど、みなさんにお知らせしようとするとついモジモジしてしまってずっと言い出せなかったことがある。それは、柿の木に向かって歩み出す約束の時刻におくれそうになった僕が  時間にダラシがないことをみなさんには是非ともかくしておきたかった  パラシュートを背負って空からその木のもとに降り落ちてきたということである*1


今回は①と②に分けてお送りします。


前回(第10回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年7月5日と同年10月28日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。