(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

とうとう小さなアイツがやって来る

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第13回


 科学がやる「存在の客観化」という存在と関係をすり替える作業について確認中である。僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて、柿の木がその作業の末、とうとう、「どの位置を占めているかということとどんな力をもっているかということしか問題にならないものであることになるところまで、見た。


 でも、「どの位置を占めているか」ということと「どんな力をもっているか」ということしか問題にならないものとはいったい何?


 それこそ、科学が追い求めてきた元素のことなんじゃない?


 順をおってお話ししよう。


 事のはじめに「絵の存在否定」、ついで矢継ぎ早に「存在の客観化」をなす科学にとって、僕の前方数十メートルのところにある柿の木は、「どの位置を占めているか」ということと「どんな力をもっているか」ということしか問題にならないものである。


 ところが、いっぽんの柿の木でも、部分によって、根であったり、幹であったり、枝であったり、葉であったり、実であったりする。根、幹、枝、葉、実、といった各部分のあいだにはちがいが認められる。また根は根でも、その先端とつけ根(冗談を申し上げているのではない)とではだいぶちがう。


 こうした部分同士のあいだにあるちがいを科学は説明できるようにならなければならない


 そこで科学は、いっぽんの柿の木を部分ごとに分け、それぞれ別のもの(別の力をもったもの)と考えていくことにする。結果、柿の木は最小単位まで細分化されることになる。その最小単位こそ科学が、元素、と考えるものなんじゃないだろうか。


 以上、「存在の客観化」という存在と関係をすり替える作業を経て、柿の木は、心の外に実在している、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まり」にすぎなくなるということが、明らかになった。


 実際、電子顕微鏡で見れば、原子の存在はたしかめられる(寡聞な僕は詳しいことは知らないが)。柿の木は何度も申し上げているとおり、歩みよれば刻一刻と姿を大きくし、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりすれば姿を黒くもしくは黄色っぽくする、いわば「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものであって、僕が肉眼で臨めば、いわばマクロな姿を呈するし、電子顕微鏡ごしに見れば、原子同士からなるミクロなとでも言うべき姿をとる。僕が遠くから目の当たりにする柿の木の姿も、近くで目のあたりにする姿も、サングラスをかけて目の当たりにする姿も、電子顕微鏡ごしに目の当たりにする姿も、どれもこれもぜ〜んぶその柿の木の姿である。どれかがニセモノで、どれかのみホンモノだということはない。全部モノホンである。


 だけど科学は、「存在の客観化」によって、肉眼で目の当たりにする柿の木のマクロな姿をすべて、ニセモノ(主観的要素)にすぎないと因縁をつけ、心のなかにうち捨てるわけである。柿の木を、僕が歩みよろうが、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりしようが、何ら変わることのないもの、すなわち、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)であることにするために。


 事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなしたばっかりに引っ込みがつかなくなって。


 またつぎのことも再確認しておきたい。科学が心の外に実在するものとして想定する元素はあくまで、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)であるが、実際に目の当たりにされる原子は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものであるということを*1

つづく


前回(第12回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました