*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第11回
そう、僕は上空から、ほんの豆ツブみたいな柿の木が急速に大きくなっていくのを、パラシュートを開く時機をいまかいまかとはかりながら、目の当たりにしていた(急速に大きくなっていったのは柿の木の、実寸、ではなく、あくまで、姿、であるとここでもつけ足さなければならないだろうか)。
そのとき僕が目の当たりにしていた柿の木の姿のなかから、みなさん、お好きな一瞬のものをひとつお選びになって、ご想像くださる?
お選びになったその瞬間に僕が目の当たりにしていた柿の木の姿はどんなだったか。
すくなくともつぎのことだけは自信満々で請け合える。
地面に降りたったあと、腕時計にちらっと目をやった僕はあわてて柿の木に向けて歩み出したが、そうして歩みよっているあいだのどの瞬間に僕が目の当たりにしていた柿の木の姿とも、みなさんが先にお選びくださった瞬間の柿の木の姿は、ああもうまるっきりちがっていたはずである、と。
着陸後の僕が柿の木に歩みよっているあいだに目の当たりにしていた柿の木の姿からも、みなさん、お好きな瞬間のものをひとつお選びになれ。
お選びくださったふたつの瞬間のどちらでも、柿の木はおなじ位置にあって、まったく動いていなかったと仮定する。さあ、みなさん思い描かれよ、みなさんが最初にお選びになった、空から落ちている最中のある一瞬に僕が目の当たりにしていたその木の姿と、みなさんがふたつ目にお選びになった、歩みよっているあいだの一瞬に僕が目の当たりにしていたその木の姿とを。
それらがいかにまるっきりちがっているかを、マジマジと。
そのふたつの姿はたがいに何がちがっているか。
まず色がちがっている。上空から落ちている瞬間のほうでは、ダイダイ色を見せている柿の木の部分は、僕が柿の木に歩みよっている瞬間のほうでは、「見えないありよう」を呈している。後者の瞬間にくっきりしたコゲ茶色を見せている柿の木の幹は逆に、上空から落ちている瞬間のほうでは、「見えないありよう」をとっている。
それにふたつの姿は、容姿とでも言うべきものも決定的にちがっている。上空から落ちている瞬間のほうでは、剣山を上から見たような丸まっちい姿をしているが、歩みよっている瞬間のほうでは、痩せた長身の姿を呈している。
科学はそのどちらの瞬間でも、柿の木はたがいにちがいひとつすらないと考え、それらふたつの瞬間の柿の木の姿のあいだに認められるちがいをすべて、主観的要素にすぎないと因縁をつけ、それぞれの姿からとり除く。
こうして、色や容姿が柿の木からとり除かれ、僕の心のなかにポ〜イとうち捨てられるに至る。
じゃあそのあと、それらふたつの姿にそれぞれ残る、たがいにたったひとつのちがいすらないものとは何か。
それは、おなじ位置を占めているということ、なんじゃない?
このように、とり除き作業の結果、柿の木は、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもの、であることになる。それこそが、僕の心の外に実在しているホントウの柿の木ちゅうもんであるということになる。
この「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものを、いちはやく「存在の客観化」をやってのけたデカルトは、延長、とよんだ。
科学がいまばく進している道は、デカルトが汗水たらして準備したものであると言えるように僕には思われるけど、デカルトは最初にその道を切りひらくにあって、「絵の存在否定」という不適切な操作をなすところからはじめた。で、そのあと「存在の客観化」という存在のすり替え作業をやり、いま僕がやってご覧にいれたように存在を、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものと結論づけて、延長となづけた(デカルト『哲学原理』第2部4*1、または『省察』での有名な蜜蝋についての考察を参照されたし)。
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しかしそれにしてもなぜ延長となづけた?
「いまこの瞬間に僕が体験している世界のありよう全体」の隅々にまで、架空の三次元座標を引きのばしていけば、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものというのは、その座標上で、x軸、y軸、z軸の方向それぞれにどれだけ延びているか表現すれば、あますことなく言い尽くせるようになると考えられ、延長となづけられたというところである。
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ひとつまえの記事(①)はこちら。
前回(第10回)の記事はこちら。
このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。
*1:デカルト『哲学原理』桂寿一訳、岩波文庫、1964年、p.97、1644年
第2部4(物体の本性は重さ・堅さ・色等のうちにではなく、ただ延長のうちに成り立つ。)
そうすること〔知性だけを使用すること〕によって、我々は物質即ち一般的意味の物体の本性が、それが堅さや重さや色あるもの、或いはその他何らかの仕方で、感覚を刺激するものであるという点にではなく、ただ単に、長さと幅と深さとに拡がっているものである点に、存することを知るであろう。何となれば堅さについて言えば、これについて感覚が我々に知らせるのは、我々の手が当るときその手の運動に、堅い物体の部分が抵抗するということ以外に、何もないからである。もしも我々の手が或る方向に向って動くとき、そこにあるすべての物体が、手の進むのと同じ速さでいつでも退くとしたらならば、我々は少しも堅さを感覚しないであろう。そしてかように後退するとした物体が、その故に、物体の本性を失うであろうとは、何としても理解できないことであって、従ってその本性は堅さのうちには存しないのである。同じ仕方で、重さも色もその他、物体的物質のうちに感覚される一切の同様の性質も、〔物体〕本性をそのままに残して、そこから除き得ることを示すことができる。ここから物体の本性は、それらの性質のいずれにも依存しないことが出てくる(太字は引用者による)。