(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

柿の木は気遣う

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第5回


 みなさんには、いまこの瞬間、僕が柿の木を目の当たりにしているとご想像いただいている。その柿の木の姿は、僕の前方数十メートルのところにある。だけど、科学は事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなし、この柿の木の姿を一転、僕の心のなかにある映像であることにする。で、つづけざまに「存在の客観化」という作業をやって、僕の心の外にそのとき実在しているホンモノの柿の木は、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まり」にすぎないと結論づけるとのことだった。


 この「存在の客観化」という存在すり替え作業について詳しく見るために、僕は今度こそほんとうに柿の木へ向けて歩み出す。みなさん、僕におなりになったつもりでご想像にならんことを、とこいねがいながら。


 ガシュ(足もとの砂利の音)、ガシュ、ガシュ・・・・・・僕はついにいっぽいっぽ柿の木に歩みよりはじめた。するとどうだろう、僕の前方にある柿の木はその姿を刻一刻と大きくしていくじゃないか。一瞬ごとに、上方へ音もなくすう〜ッと伸びていき、それと同時に少しずつ横へ幅を増していくじゃないか。


 もちろん、僕が歩みよるにつれ、柿の木の実寸が一瞬ごとに大きくなっていると申し上げているんじゃない。


 一瞬ごとに大きくなっていると申し上げているのはあくまで柿の木の、姿、である。僕が歩みよっているのに柿の木の姿がウンともスンとも大きさを変えなければ、逆に僕は目のまえで柿の木が一瞬ごとに実寸を縮めているのを目撃していることになる。


 じゃない?


 僕が歩みよるにつれ、前方にある柿の木の姿は刻一刻と大きくなる。であればこそ、柿の木の実寸は終始一定に保たれえる。


 しかし柿の木は刻一刻とその姿を大きくしていくだけじゃない。ほら、歩みよっている最中に僕が目を閉じれば、そくざに姿全体まるまるひとつを「見えないありよう」に変えたじゃない? 不意を突くように再度、目を開けたときには、まるでじっと僕を観察していたかのように、僕のほうに向いた面の、上っ面だけをきっちり「見えるありよう」に変えて、僕を待ちうけていたし、懐からとり出したサングラスをかけると、それに合わせて、黒っぽい姿を呈しもしたんじゃなかったか。


 このように柿の木は、僕の身体がコレコレの場所にあって、コレコレの方向を、コレコレこんなふうに向いていれば、姿をコウするといったふうに、「僕の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるものであると思われる。

つづく


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