*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第3回
僕がいまこの瞬間、柿の木を見ているとご仮定いただいたうえで、科学が事のはじめになす「絵の存在否定」という不適切な操作をちらっと実演してお見せした。
それを、つぎのように箇条書きでまとめておいてから、「存在の客観化」について確認しはじめることとする。
- 1.位置の承認
柿の木と僕の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める。
- 2.部分であることを否認
しかし、それらのどちらをも「柿の木を見ているという僕の体験」の部分とは認めない。
- 3.絵が存在していないことになる
すると、その瞬間、「柿の木を見ているという僕の体験」は存在していないことになって、僕には柿の木が見えていないことになる。見えていない柿の木と僕の身体とがたがいに離れた場所にただバラバラにあるだけということになる。
- 4.場所の追放
そのとき僕が現に目の当たりにしている柿の木の姿を、僕の前方数十メートルのところにあるものではなく、僕の心のなかにある像であることにする。
- 5.存在のすり替え
そしてその心のなかにある像に対応しているホンモノの柿の木が、僕の心の外に実在しているということにする。科学が「存在の客観化」をやるのはこの段階である。
- 6.知覚=情報伝達変換論
心の外に実在しているホンモノの柿の木から光にのってやってきた、当の柿の木についての情報が、眼、神経、をへて脳にいき、そこで心のなかの映像に変換されるとし、その像こそ、僕がそのとき現に目の当たりにしている柿の木の姿だとする。
さあ、いまから、前記5のところでなされる、「存在の客観化」と僕がよぶところの存在すり替え作業を、見ていこう。ひきつづき、僕が柿の木の姿を目の当たりにしているものとご仮定いただく。ただしここからは、その柿の木に僕がいっぽいっぽ歩みよって行く場面をみなさんにご想像いただくことにする*1。
前回(第2回)の記事はこちら。
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*1:2018年6月23日と同年10月23日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。