*科学の出発点をナミダナミダで語り直す第8回
「いまこの瞬間に僕が体験している世界のありよう全体」の隅々にまで「絵の存在否定」という不適切な操作を及ぼすと、僕が体験するもの一切は、僕の心のなかにある像であることになる(前記4.場所の追放)。見るというのは、心のなかに映像を認めること、聞くというのは、心のなかに音を認めること、左手がブラブラしているのを感じるというのは、心の外で「左手機械」がブラブラしているという情報を心のなかに認めることになる。
そして、心のなかにあるそうした映像、音、情報やに対応する「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まり」にすぎないものが心の外に実在すると考え進めることになる、というわけだった。
しかしそうなると、通り過ぎようとして服にクギがひっかかったときのように、何かが気持ちにひっかかるようになる。
それについて語るところから、デカルトは彼の思索道を記述し出したと言える。
では、いったい何がひっかかるようになったのか。
見ること、聞くこと、匂うこと、味わうこと、感じることはすべて、心のなかに像を認めることである。心があるのと、心のなかにそうした像があるのとはたしかなことであると考えられる。しかしながら、心のなかのそうした像に対応するホンモノが心の外に実在するというのは果してほんとうのことだろうか。心のなかのことしか確かめようがないのに、なぜ、心の外にそんなものが実在すると請け合えるのか。ひょっとすると、そんなものが心の外に実在するはずであると勝手に思い込んでいるだけかもしれないではないか。錯覚や夢がそのいい例である。心の外には、太陽も、雲も、空気の振動も、「身体機械」も、ほんとうは実在しないのかもしれない
そういった疑念を覚えて頭を悩ますことを方法的懐疑と名づけたデカルトは、こうした結論をくだすしかなかった。
絶対確実に在ると疑いなく請け合えるのはやっぱり、心と心の中身だけじゃないか。
これこそ、方法的懐疑をまるで彼の思索道の第一歩目のように本に記録したデカルトが、その直後にくだした有名な結論、すなわち「われ思う、われ在り」ではないだろうか。
デカルトの言う「われ思う」とは、心のなかに像を認めることである。「われ思う、われ在り」とは、「われは心のなかに像を認める、われという心と心のなかの像とは存在する」ということではないのか。
だがまさにこれは、事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為せば、僕の体験するもの一切が、心のなかにある像としか解せなくなり、まちがいなく在ると言えるのが、心と心のなかの像に限定されてしまうというだけのことにすぎない。
- 作者: デカルト,Ren´e Descartes,谷川多佳子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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