*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第8回
科学が「絵の存在否定」という不適切な操作の結果、俺が目の当たりにしている松の木の姿を、俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」についての情報とし(外界知覚論)、 かたや「身体の感覚部分」を、俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの身体の物的部分」についての情報とする(身体知覚論)顛末をここまで確認してきました。
このように俺が目の当たりにしている松の木の姿や「身体の感覚部分」を、俺の心のなかにある情報と解しますと、そうした情報の内容を信じることができるのかどうかが、とたんに問題となってきます。
俺の心の外に実在している、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」についての情報を、俺の心はどうやって入手するのか。その情報が俺の心のなかで勝手に湧きあがってくるだけだとしたら? もしそうなら、そんな情報の内容を信頼することは可能だろうか。デマである可能が高いと考えないわけにはいかないのではないか。
そこで科学は、俺の心のなかにある、「ほんとうの松の木」についての情報や、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報を信頼するに足るものとするために、それら情報をたしかな入手先から俺の心のなかにやってくると考えることにしました。
- 作者: デカルト,Ren´e Descartes,谷川多佳子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/01/16
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俺の心のなかにある、「ほんとうの松の木」についての情報なら、俺の心の外に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」からやってくることにしました。 とはいえ、俺の心の外に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」から、その「ほんとうの松の木」についての情報が俺の心へとやってくるのが調査の結果、確かめられた、というのではありません。 科学が言うところにしたがえば、俺の心の外は、そこに実在する「ほんとうの松の木」をはじめ何ひとつとして、見ることも触れることもできません。「ほんとうの松の木」についての情報が、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」から、見ることも触れることもできない他のものたちのわきをすりぬけて俺の心のなかまでやってくるのを、どうして科学に確かめることができたでしょう。
俺の心のなかにある、「ほんとうの松の木」についての情報を科学はこのように思い込みだけで、俺の心の外に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」からやってくることにしました。そして、つぎのような視覚論(既出)をぶちました。 「ほんとうの松の木」についての情報は「ほんとうの松の木」から光に運ばれて、俺の「ほんとうの身体の物的部分」まで来、眼球で電気的興奮のかたちに変換される。で、以後そのかたちで神経をつうじて脳まで伝達され、そこで映像に変換されて、俺の心に手渡されるのだ、と。
俺の前方数十メートルのところにある松の木に反射した光が眼球に当たり、そこから、神経、脳へと連鎖的に電気的興奮が伝導するという事実を、科学はこうして、俺の心の外に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」(分子の組み合わさったもの)についての情報の伝達と見ることにしたわけです(架空の情報伝達を想定することにしたと言えます。もちろん科学は架空とは考えませんが)。
神経をへて脳に至る電気的興奮の伝導をこのように情報の伝達とする見解を以後、情報伝達論と呼ぶことにいたします。
次回は2月12日(日)朝10:00にお目にかかります(前回は配信に失敗して、予定時刻にみなさんにお目にかかれず、くずおれました)。
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