(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

科学は身体感覚を、心のなかにある、身体についての情報とする

*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第7回

 科学が事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為して、俺が目の当たりにしている松の木の姿を、俺の前方数十メートルの場所にあるものではなく、俺の心のなかにある映像であることし、俺の前方数十メートルの場所に実在している、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木についての情報であることにするのを先に確認しました。


 科学はその要領で、現に俺が目の当たりにしている俺自身の「身体の物的部分の姿をも俺の心のなかにある映像であることにし、俺の心の外に実在する、見ることも触れることもできない俺の「ほんとうの身体の物的部分」(分子の組み合わさったもの)についての情報であることにします。たとえば俺がいまこの瞬間、自分自身の左手を目の前にかざしているとすれば、俺が目の当たりにしている左手の物的部分の姿を、科学は、俺の眼前数十センチメートルのところにあるものではなく、俺の心のなかにある映像であることにし、俺の眼前数十センチメートルの場所に実在している、見ることも触れることもできない「ほんとうの左手の物的部分についての情報であることにします。


 で、さらには、俺がその瞬間に感じている左手の感覚(部分)」をも馬から落馬のような重複表現になってしまっていますが)、俺の眼前数十センチメートルのところにあるものではなく、俺の心のなかにある像であることにし、俺の眼前数十センチメートルの場所に実在している見ることも触れることもできない「ほんとうの左手の物的部分についての情報であることにします。


 そして、つぎのような情報変換論を語ります。すなわち、俺の眼前数十センチメートルのところに実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの左手の物的部分についての視覚情報と身体情報(という呼び名をここでは使っておきます)とが電気信号のかたちで神経を通じ、俺の脳までやってくる。俺の脳は、そうしてやってきた視覚情報と身体情報とをそれぞれ、電気信号のかたちから、映像感覚とに変換して、俺の心に手渡してやるが、前者の映像こそ、俺が現にその瞬間、目の当たりにしている左手の物的部分の姿であり、かたや後者の感覚こそ、俺が現にその瞬間、感じている左手の感覚(部分)」なのだ、と。


 科学はこのようにして、「身体の感覚部分、俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの身体の物的部分についての情報であることにするわけです。


 以後、「身体の感覚部分」を、俺の心のなかにある、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報とするこうした見解を、身体知覚論と呼んでいきます。


「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とがほぼ同じ場所を占めてひとつになっているものこそ身体だと最初に申しました。「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」はこのように、身体のうちの二部分です(同じ場所を占めるもの同士を別部分と表現するのはおかしいですが、ご容赦ください)。ところが科学は、見てきましたように、事のはじめに「絵の存在否定」という事実に反した不適切な操作を為し、「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とを共に、俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの身体の物的部分」(俺の心の外に実在するとされる)についての情報とします。そうしますと自動的に、見ることも触れることもできない「ほんとうの身体の物的部分」(分子の組み合わさったものこそが身体であることになります。身体のうちに、「身体の感覚部分は含まれなくなります

つづく


次回は2月8日(水)朝7:00にお目にかかります。


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