*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第6回
さて、科学が事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為し、その結果、いまこの瞬間に俺が目の当たりにしている松の木の姿を、俺の前方数十メートルの場所にあるものではなく、俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」について情報とするに至る経緯を見ました。
こういうことでした。
科学は、俺がいまこの瞬間に目の当たりにしている松の木の姿と、その瞬間の俺の「身体の感覚部分」とを、それぞれがその瞬間に在る場所に在るのは認めるものの、「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士であるとは認めず、事実に反して、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士であることにすり替えます(「絵の存在否定」)。すると、俺にはその瞬間、現に松の木が見えているにもかかわらず、松の木が見えていないことになります。そこで科学は、俺にはその瞬間、松の木が見えていないということにするために、俺がその瞬間、現に目の当たりにしている松の木の姿を、俺の前方数十メートルのところにあるものでなく、俺の心のなかにある映像にすぎないことにします。そして、俺の前方数十メートルの場所にはその代わりに、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」が実在するということにして、俺がその瞬間、現に目の当たりにしている松の木の姿を、俺の心のなかにある、「ほんとうの松の木」についての情報であることにするというわけでした。
科学はこのように、「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士をことごとく、事実に反して、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士であることにすり替え、現に俺が目の当たりにしている松の木の姿のみならず、現に俺が聞いている廊下の足音、現に嗅いでいる台所のレモンの匂い、現に味わっている口のなかいっぱいに広がるコーヒーの味など、俺が体験しているありとあらゆるものをすべて、俺の心のなかにある像とします。
で、俺の心のなかにあるそれら像のうち、俺が空想している像(たとえば俺がいまひそかに想像している頭が三つあるゴジラの姿など)以外はすべて、俺の心の外に実在する、見ることも触れることも聞くことも嗅ぐことも味わうこともできない「ほんとうの存在」についての情報であるとします。 俺が現に目の当たりにしている松の木の姿なら、先に確認しましたように、俺の前方数十メートルの場所に実在している、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」についての情報であることにし、 俺が現に聞いている廊下の足音なら、耳に入ってきた「空気の振動」についての情報に、俺が嗅いでいるレモンの匂いなら、鼻に入ってきた「匂い分子」についての情報、俺が現に味わっているコーヒーの味なら、舌に触れた「味物質」についての情報であることにそれぞれします(科学のこうした見方を外界知覚論と呼ぶことにします)。
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