(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

身体情報伝達論

*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第9回


 科学が事のはじめに絵の存在否定という不適切な操作を為し、俺が目の当たりにしている松の木の姿を、俺の前方数十メートルのところにあるものではなく、俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」についての情報であるとすること、 さらには俺の心のなかにあるその情報を、俺の心の外に実在する「ほんとうの松の木」から発し、眼球、神経、脳をへて俺の心のなかにやってくるとすること(情報伝達論)を確認しました。


「身体の感覚部分」についても、科学はこれと同様の情報伝達を想定します。


 科学は先に確認しましたとおり、事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為し、身体の感覚部分俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの身体の物的部分」(俺の心の外に実在するとされる)についての情報であるとします。 しかしそう解しますと、とたんに、俺の心のなかにあるその情報の内容を信じることができるのかどうかが問題となります。その情報はどこからやってきたのか。俺の心のなかで勝手に湧きあがっただけなら、そんな情報に信憑性を認めることはできるだろうか、というわけです。


 そこで科学は、俺の心のなかにある、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報をガセとしないために、俺の心のなかにあるその情報は、俺の心の外に実在する「ほんとうの身体の物的部分」の各所というたしかな先から発し、神経、脳をへて、俺の心のなかへ来たのだと考えます。 そうして、実際に観察される、「身体の物的部分」各所の受容体から神経をへて脳に至る電気的興奮の伝導を、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報を伝達するものだと決めつけます。


 が、ここまで見てきましたふたつの電気的興奮の伝導、すなわち、眼球から神経をへて脳に至る電気的興奮の伝導や、身体の物的部分各所の受容体から神経をへて脳に至る電気的興奮の伝導は、実際のところ、「ほんとうの松の木」についての情報や「ほんとうの身体の物的部分」についての情報などは伝達しておらず、まさに電気的興奮の連鎖以外の何ものでもないと思われます。


 そもそも、俺がいまこの瞬間に目の当たりにしている松の木の姿は、俺の前方数十メートルの場所にあるものであって、松の木そのものにほかなりません。俺の心のなかにある情報ではありません。 したがって、俺の心の外に「ほんとうの松の木」が実在すると考える必要がなく、ひいては、俺の心の外に実在する「ほんとうの松の木」から俺の心のなかへと情報が伝達される経路を想定する余地がまったくありません。


 同じことが「身体の物的部分」についても言えます。俺がいま目の前に自分自身の左手をかざしているとして、その場合に俺が目の当たりにしている俺の左手の物的部分の姿は、俺の眼前数十センチメートルのところにあるものであって、俺の左手の物的部分そのものです。俺の心のなかにある情報なんかでは決してありません。したがって、俺の心の外に、「ほんとうの左手の物的部分」が実在すると考える必要もなく、ひいては、俺の心のそとに実在する「ほんとうの身体の物的」から、俺の心のなかへと情報が伝達される経路を想定する余地もまったくありません。


 またそのときの俺の左手の感覚部分、俺の眼前数十センチメートルの場所にある、左手の感覚部分そのものであって、俺の心のなかにある像ではありません。決して、俺の心のなかにある、俺の心の外の何かについての情報ではありません。したがって、「身体の感覚部分」についても、俺の心の外に実在する何かから、俺の心のなかへと情報が伝達されてくる経路を想定する余地はまったくないわけです。

つづく


次回は2月15日(水)朝7:00にお目にかかります。


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